【教育座談会】「求められる能力」って、誰が求めてるの?ー岡村 優努×ロペス×片岡 利允
こんばんは。
ロペスです。
今日はちょっと専門的な内容を。
今朝、新学習指導要領を読んで友人たちと座談会を行いました。
参照URL
学校で「何を」「何のために」教えるのか。
教える際にどのようなことに気を配れば良いか。
それが記されているのが学習指導要領です。
これには法的拘束力があり、最低限教えなければいけない「must」なものです。
教育に身を置くものとしては、目を通しておきたいものですが、正直読み込んでいる人はあまりいないのが現状。
なぜなら、別に学習指導要領を見なくても、それに基いてつくられている教科書に沿って授業を行えばそれで事足りるからです。
しかし教科書だけに頼らず、教材の段階からつくろうとしている者たちにとっては、日本の教育の方向性を知るための貴重な資料です。
ということで、興味を持ちそうな友人たちを集めて座談会を行うことにしました。
集まったのは3人。
以前このブログでも紹介した関西大学大学院の修士課程一年生の岡村 優努くん。
・インタビュー記事
大学の後輩であり、奈良県の公立小学校教員の「とっくん」こと片岡 利允。
・彼のブログ
tokkun1225kotonakare570.hatenablog.com
そして私ロペス。
この3人です。
当初、学習指導要領についてはもう少し読む予定でした。
しかし、それぞれの想いや課題意識が溢れ出て議論が深まったので、結果的に良かったかなと。
本当に濃いメンバーで、よどみ無くテーマが出てきて、どんどん議論が進み、本当に楽しかったです。
そんな本日の座談会。
スパイスの効いた3人のカオスな鼎談、是非ご賞味下さい。
「求められる能力」って、誰が求めてる?
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まず最初に、改訂のポイントを3人で黙読。
これを叩き台に
そして気になるところを挙げて、それについて議論をしていこうという話になりました。
黙読の後、岡村くんが
「この『子供たちに求められる資質・能力』って、誰が求めてるんですかね。」
と疑問を投げかけ、これが議題に。
とっくんは「なんやねんこれ」「どういうことやねん」と新学習指導要領にいろいろ思うところがあるみたいで、ブツブツ言いながら読んでいましたが、岡村くんの疑問に共感。
上記の疑問をそれぞれ考えていくことに。
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片岡:ここに書かれている『求められる能力』って「社会全体が」求めてるって感じですね。
ロペス:うーん・・・社会全体が必要だと考える能力、それを持った子どもに育てるために国に雇われたのが教師だとすると、教師もそうなんじゃない?
岡村:公務員は全体の奉仕者ですから、そうですね。教師は子どもを教育することを通して社会に奉仕しています。ただ、そこで子どもも奉仕者にさせられていると思うんですよ。
片岡:それなんか・・・わかる、わかるわかる!!
右の図が教師から子ども、子どもから社会への奉仕の流れ図。本来は左の図のイメージ。(とっくん作)
片岡:本来、教師は子どもも含めた社会全体に奉仕をするイメージ。でも実際は一部の偉い大人たちがつくる社会で、子どもが社会から切り離されている。そして教師は子どもを通して社会に奉仕をしている。
ロペス:一部の偉い大人がつくった社会から、教師を通して「こう育つべきだ」っていう押し付けがあって、子どもがそれに従う形で社会に奉仕させられているってことね。それについて岡村くんはどう思うの?
岡村:僕はしたくないですし、されたくないです。
ロペス:ハッキリ言うね(笑)
岡村:この文章の「求められる能力」の中では、子どもの成長したい像が無視されています。一部の大人がつくっている社会を通して「教師」から一方的に押し付けられている。お互いに「人間」と「人間」なら対話によって交渉の余地があっても、「教師」と「子ども」となった瞬間、そこに権力関係が生まれるんです。子どもは教師に従うもの。そういう関係になったら子どもにconviviality(コンビビアリティ)が無くなってしまう。
ロペス:なるほど。人間同士の関係なら対等でも、肩書がついた途端そこに権力関係が生まれて、一方が一方に従わされるという状況に陥ってしまうってことね。確かに学習指導要領では子どもが育ちたい姿は考慮されていなくて、一部の大人が構成する社会や教師が権威を持って方向づけしてるよね。
岡村:学習指導要領なんで、学習する子どもが主役のはずなんですけどね。子どもの話は出てこないですね。
※conviviality(コンビビアリティ)
≒権限。その事柄に対して、意見を述べたり干渉したりする力。公共性があり、どちらか一方に属するものではなく、お互いが共有するもの。
続きを読む「ああいう子にこそタカラモノはいっぱいつまっているもんだ」
こんばんは。
ロペスです。
ライターになると決めてから一週間以上経ちました。
怒涛の一週間でした。
あっという間に過ぎたように感じます。
右も左もわからず、ひたすら関連書籍を読んで勉強し、バズったブログ記事を読み漁って、構成や表現方法を頭に叩き込んで、わけもわからず見よう見まねでこのブログに書きまくりました。
そんな中で、このブログに足を運んでくれる人が増え、
「良かったよ」
「あそこ行ってみたいと思った」
というコメントを頂けるようになり、その度に本当に涙が出そうになりました。
教育がしたかった
ただ、はじめからそのような気持ちがあったわけではありません。
自分は本当は教育がしたかった。
教育者として力を磨いて、教育がしたかったんです。
でもそれが出来ない。
ですので、ライターをはじめた時「なんでライターなんて・・・」という気持ちがありました。
自分は教育をやりにきたのだ。
なんで物書きなんて。
そんな気持ちを自分の中にぐっと押し込み、仕事をしました。
しかし、この一週間同僚や先輩と話したり、読者からのコメントを頂く度、自分は自分のしたいことができていることに気づきました。
「まだ誰も見つけていないヒト、モノ、コトの持っている『タカラモノ』を見つけて、捕まえて、拡散したい。」
この想いは教育でなくとも、ブログを書くという方法で実現できていました。
一週間で気づけたのは、このブログを書くのに関わってくれた仲間のおかげです。
本当に感謝しています。
「ああいう子にこそタカラモノはいっぱいつまってるもんだ」
自分が教員時代好んで読んでいた本に、灰谷健次郎の『兎の眼』というのがありました。
その中の登場人物の一人に足立先生という人物がいるんですが、私はこの先生が大好きです。
この先生は、学校の中で先生たちが手を焼いている子どもに対して、次のように言います。
「ああいう子にこそタカラモノはいっぱいつまっているもんだ」
他の先生たちがどうしようもないと賽を投げるくらいの子どもに対して、これを言うんです。
この姿勢に自分は感銘を受けました。
自分もそうなりたい。
真剣に思いました。
今は教育という領域から離れていますが、ライターとして、地域に眠っているまだ誰も見つけられていないたくさんの「タカラモノ」を見つけたい。
そして色んな人にその良さや面白さを伝えていきたい。
その為にも、もっと表現の技術を磨き、「タカラモノ」を探せる洞察力を磨き、皆さんにそれを伝えていけたらと思います。
このブログも毎日50名以上の読者がアクセスしてくれるようになりました。
これからもより良い記事を、たくさんの「タカラモノ」を皆さんに紹介できるよう頑張っていきます。
今後もよろしくお願いします。
おわり
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海ィィィ!!!ー【あらい浜風公園】
どうも。
ロペスです。
フォー!!!
アッハッハッハッハー!!
すみません、取り乱しました。
海を見ると、どうしても、こう…くるんですよね。
「何か」が。
私は生まれてから長年奈良暮らしで、周りは全て山という盆地環境で育ちました。
海なんてもの、当然身近に存在しない。
ということで、とりわけ「海」に強烈な憧れを持っていまして、見るとどうしても胸の高鳴りを禁じ得ないわけであります。
つまり海大好きなんです。
もうめっちゃ好き。
どれくらい好きかというと、
「海の幸か山の幸か」
と聞かれれば、間を置かず
「肉の幸!」
と答えるくらいに肉が好きです。
肉ゥゥウウ!!!
アッハッハッハッハー!!
すみません、間違えました。
海の幸が好きです。
そんな私の心を常ならない状態にまで惹きつける「海」。
そこへ私はやってきました。
「あらい浜風公園」
今回はこの場所について、ご紹介していきたいと思います。
長い長い道
あらい浜風公園は、加古川市の国道250号線(通称「浜国」)を西に進み、43号線に入って南西に向かったところにあります。
入口をくぐると、海へ続く長い道が…。
…。
え、長っ!!!
海まで、かなりの距離があります。
そのため海岸線近くまで車で行けるよう、車道が奥まで走っています。
なぜこんなに長いんでしょうか。
これには少し深いわけがあります。
この辺りは昔から「白砂青松」と呼ばれる風光明媚な場所で、近隣の方々に親しまれていたようです。
しかし高度成長期、工場地帯の中枢を担っていた臨海部は開発が進み、海岸線をどんどん埋め立てたそうです。
そのため、海辺が遠くなり、海岸線が失われてしまったという悲しい歴史があります。
遠くなる海辺
ですが、その方向性に反感を持った地元市民の働きにより、海に親しみを持てるような海辺環境の整備が、県をあげて行われるようになりました。
その結果出来上がったのが、この
「あらい浜風公園」
です。
この長い長い道は、たとえ遠くとも、海辺を向かう気持ちを忘れずに、一歩一歩海岸線に進んで行った地元市民の軌跡なのです。
長い道の先
眼前に広がる海
周辺環境
あらい浜風公園の魅力は、ひらけた景色や、青と白を分け隔てる水平線など、海に関わることばかりではありません。
付近にはビオトープのようなものがあり、自然を楽しむことができます。
これは…カワニナ?
何かいろんな植物(適当)が生えている
また、面白い仕組みの池も見つけました。
何でも潮の満ち引きと連動して、池の水位が変わる池なんだそうです。
地下で海と繋がっている?
この他にも、広い芝生では小さい子とご両親が遊んでいる微笑ましい様子が見られたり、愛を深め合うカップルが見られたりします。
訪れる様々な人たちの憩いの場として、愛されている公園であることが感じて取れました。
是非皆さんも一度遊びに行ってみて下さい。
そしてその際は少し遠いですが、是非ご自身の足で、海の景色が見える場所まで歩いてみて下さい。
黄昏時の公園
おわり
姫路のシリコンバレー【コワーキングスペース「mocco」】
こんにちは。
最近体重が人の域を超えました。
ロペスです。
色々なダイエットを試しているのですが全く成果は出ず、増える一方。
誰も私を減らせません。
コワーキングスペースとは・・・?
今日はそんな私でもスタイリッシュを目指せる夢のような場所を見つけました。
それが「コワーキングスペース」という呼ばれるもの。
もう名前からしてスタイリッシュ。
かっこいい。
私のような巨漢でも、MacPC叩いてたらスタイリッシュに見える。
すみません言い過ぎました。
今日利用させていただいたのは、姫路にあるコワーキングスペース「mocco」です。
コワーキングスペース、皆さんは聞いたことがありますか。
私は詳しく知りませんでした。
同様に聞きなれない方も多いと思います。
それもそのはずで、この言葉や場所が日本で市民権を得たのは、ほんの4,5年前のことだからです。
結構新しいものなんですね。
そもそもコワーキングとは何でしょうか。
コワーキングとは、事務所や会議室などを共有しながら、利用者それぞれが個々に仕事をする働き方です。
コワーキングスペースはそれを行う場所のことを指します。
自分で事務所を持つ必要がないため、その分コストを減らすことが出来るのと、そこで一緒に仕事をしている人たちと出会うことで新たな仕事が生まれる可能性があったりと、利用するメリットはたくさんあります。
ここ「mocco」もそのような場所の一つ。
起業家、フリーランスなどの方々が集まり、日々仕事をしたり、常連仲間と会話を楽しんだり、またその中から新たなビジネスが展開したりしています。
つまりコワーキングスペースとは、色々なビジネスが動き、それらが交わることで新しいものが生まれる、シリコン・バレーのような環境なのです。
ではその魅力を一つ一つ紹介していきましょう。
コワーキングスペース「mocco」
姫路駅から徒歩7分。
城陽ビルの4Fに、コワーキングスペース「mocco」はあります。
城陽ビル入口
ビル前に置いてある看板
「mocco」入り口
手書きのかわいい看板が迎えてくれます。
入り口の戸を開けると、まず一番はじめに目に入るのはフライヤーの棚。
これだけ見ても相当な数です。
多くのビジネスがここで動いていることがわかりますね。
フライヤーの棚
歩を進めると、ゆったりと落ち着ける仕事スペースが広がっています。
利用者の方々がそれぞれ仕事をしており、見知った人と雑談を交わす様子なども見られます。
仕事スペース。椅子の座り心地は最高でした。
雑談を交わす利用者の方々。
壁面はイベント告知やプロジェクト広報、仲間募集などのスペースになっており、自由に書き込めるようになっています。
また、快適に仕事ができるよう環境や設備も整っており、wifiは完備、コンセントがあるためPCやタブレットを持ち込んで仕事を行うことが出来ます。
その他に複合機、大判プリンターなどの設備、ドリンクバー、電子レンジ、更にはなんとキッチンまであり、飲食環境も整っています。
複合機。資料の印刷などに使えます。
大判プリンター。
ドリンクバー。
まさかのキッチン。
え・・・?これハンモック?
値段
そして最後。
これだけの整った施設だから、さぞかしお高いんでしょうとお考えの皆さん。
朗報です。
目ざとい方は最初の看板の写真で既にお気づきかと思いますが、本当にお手頃な値段設定。
料金はなんと
1日利用して1,000円ポッキリ
なんです。
一ヶ月利用だと
9,800円。
とんでもないことです。
もう近所に欲しいくらいです。
むしろ姫路の近所に住みたい。
今まで外で仕事をするときは、大体カフェでした。
高いコーヒー買って、店員の「お前まだいんのかよ」という視線と戦いながら作業をしていました。
それが1,000円ポッキリで一日中仕事ができる環境があるなんて。
これからここ使っていこうかな・・・。
是非みなさんも姫路にお越しの際は「mocco」を利用してみて下さい。
おわり
「目に見えない問題を見える化する」【研究者】岡村 優努
こんにちは。
ロペスです。
昨日は関西大学の修士一年生、岡村優努くんと話をしてきました。
教育界隈で活動していて、お互いの名前は一度や二度聞いたことがある程度だったのですが、SNSで接触してきてくれたことから今回の話につながりました。
研究者を目指し、現場と研究双方の感覚を併せ持つ岡村くん。
今回はその話の内容について書いていきます。
■謙虚な研究者のたまご
待ち合わせは難波のROUND1。
「場所よくわからないけど、赤い糸で繋がってると信じて向かうね」
とジョークを投げると
「会わないかもしれないッスネ(笑)」
と返ってくる。
「今日はフランクにいけるかな?」と構えを少し崩して待ち合わせ場所へ。
少し待つとTシャツ短パンの華奢な青年が笑みを投げかけてきました。
「こんにちは!」
自分の服装を見直すと、ポロシャツとカーゴパンツ。
お互いのラフな格好を見て、ちょっと張っていた気持ちが和みました。
「いやー、この格好でいいのか心配やってんけど、いけそうやな(笑)」
と軽く挨拶。
腹ごしらえのため河童ラーメンへ。
狭い教育の世界です。
名前はお互い知っていたので自己紹介も特に必要なく、間を置かず一気に議論に花が咲きました。
ここで軽く岡村くんの紹介をしておくと、大阪大谷大学在学時、大阪の「箕面こどもの森学園」で一年間インターンを経験し、卒業論文ではオルタナティブスクールを研究対象に。
卒業後、教育社会学と教育行政学を学ぶために関西大学の修士課程へ進み、現在に至ります。
彼と自分との接点は、自分がフリースクールについて調べていて行き詰まっている時にSNSで声をかけてくれ、卒業論文を送ってくれたことから始まります。
正直初めはあまり良い印象を持っておらず、インテリ風のキザで華奢な感じの学生というように見ていました。
ただ、彼自身そのように見られやすいことを意識しており、処世術としてていねいな敬語、腰の低い態度を身に付けていました。
それは共感するところがあり、
「お互い弁が立つと苦労するよね」
なんて話でも盛り上がりました。
とにかく、自分の持っていた先入観は崩れ去り、謙虚な研究者のたまごとして岡村くんと議論をすることになりました。
■conviviality(コンヴィヴィアリティ)
初めの議題はイヴァン・イリイチのconvivialityについて。
convivialityとは何か?
難しい概念なので具体的な例を出して説明してみます。
学校を例に出してみましょう。
学校にはルールがあります。
廊下を走ってはいけない、授業は座って聞く、私語をしない・・・etc
このようなルールに対して、現状の子どもたちは従う他に術を持たず
「そのルールはおかしいんじゃないか。修正の必要があるのではないか。」
と言うことが出来ません。
この状態をconvivialityが無い、と表現します。
つまり、ここでの例で言うと、多少強引ではありますがconvivialityとは「権限」と言い換えることができます。
ただ少しニュアンスが違って、「権限」はどちらか一方が持つものという印象ですが、convivialityにあるのは「お互いに」という公共性。
なので便宜上
conviviality≒権限
としておきます。
上記の例を用いると、権限を子どもに渡すというと
「子どもの好き勝手にされるじゃないか!!」
という反応をする人がいると思います。(自分もそうでした。)
しかし、それに対して学校側も
「好き勝手にするのはおかしい」
という権限を持っているというのが大事なところ。
つまりconvivialityがあるというのは、学校と子ども両方に同等の権限が有り、対等な立場で物事を決めていけるような状態なのです。
岡村くんは公教育では「子どもにconvivialityが無く、人権が侵害されている」と主張します。
現場で支配的に教員をしていた自分にとって、この話は衝撃的で「子どもに権限など渡したらろくなことにならない」という不安が払拭できずにいましたが、彼はそれでも「子どもを1人の人間として尊重するなら大切なことです。」と言います。
続けて彼は、上記のように一見当たり前のように見えても、実はそこで苦しんで不登校になったり、精神的に苦しんでいる人もいることを指摘。
「僕は『見えていない問題を見える化』する研究者を目指しているんです。」
と話します。
当たり前だと思っていることの中にも、実は問題が隠れていて、見えにくいだけでどこかで誰かが苦しんでいるかもしれない。
自分はそれ見えにくくしているものをはがして見えるようにしていきたい、そういう研究者になりたい。
語調こそ穏やかだったものの、眼に力をこめ、そう語りました。
もうこの時点で自分の岡村くんへ対する見方は大きく変化していました。
まず、「べき」や「ねば」といった言い方をしない。
これらの言葉は「世間が」「社会が」「他人が」と、本人以外の主語がくるため、その当人と話してる感じがしないんですよね。
彼はそういったあやふやな言葉を使わず、「僕が」とていねいに主語を立てる。
そして必ず相手の主張を尊重する。
会話の中で、自分はそんな岡村くんの人当たりの柔らかさに、次第に魅力を感じ始めていました。
研究者という怜悧で冷たい印象のおカタい人物ではない、心根の優しい人。
そんな印象を持ちはじめていました。
■「言葉」から漏れ出たコミュニケーション
次に場所を移し居酒屋へ。
おいしいお寿司に舌鼓を打ちながら、共通の友人の話をしたり、真面目な議論から少し離れた人間臭い話をしたり。
「ほんと腹立ちましたからね!!」
と過去の経験を語気を荒げて話す岡村くんは、飲んで、笑って、怒る一人の若者でした。
そんな中で次第に岡村くんと通じ合うような感覚がしてきました。
勘違いだったら自分がただのイタい奴なんですが、彼もそれを感じており、今度はカフェへ場所を移して「言外のコミュニケーション」という議題で話しました。
突然ですが、あなたはこんなコミュニケーションとった経験はないでしょうか。
自分の家に来客者がいるとします。
来客者はうちわを仰ぎながら「この部屋暑いね」と言いながら顔をしかめています。
この場合、あなたならどうするでしょうか。
1,「たしかに暑いね」と同調する。
2,「クーラーつけますか」と聞く。
大概の人は2を選ぶのではないでしょうか。
客人の「暑いね」というメッセージの裏に「なんとかしてくれ」という、別のメッセージを読み取れたなら2を選ぶと思います。
これが「言外のコミュニケーション」です。
相手の発言を「言葉」に注目し、それだけで受け取るとこの選択は出来ません。
言葉以外の表情、視線の方向、そんなところから「言葉」の背景にあるメッセージを推測し、相手の意図を読み取る。
この「言外のコミュニケーション」が岡村くんとの間で円滑に行われていたからこそ、通じ合ってる気がするのだと、2人で話していました。
そして、これを子どもとのコミュニケーションだけに限らず、関わるあらゆるものと、あらゆる方法でのコミュニケーションを大切にしたいと、岡村くんは言います。
「先入観や、相手をこうしてやりたいという気持ちでコミュニケーションをしていると、言外のコミュニケーションは伝わらないんです。そこを円滑にするために、僕はコミュニケーションでは人間対人間という姿勢で臨むことを大切にしています。」
怜悧でカタい印象の研究者。
その先入観で見ていると、おそらく岡村くんのことをずっと誤った見方をしていたと思います。
今回話をする中で、肩書を脱ぎ、ひとりの人間として現場で人との関わりをていねいに行い、優しい研究をしていきたいと語ってくれた岡村くん。
その心根に胸を打たれた1日でした。
ありがとう。
おわり
明日は何者かになろうとするあすなろたち
こんばんは。
ロペスです。
今日は書店でたまたま出会った本の紹介。
読み進める内に「これは紹介しよう!!」となったので、この場を借りて紹介します。
(海がめサーフくんにはちょっと休んでもらいます。)
自分がこの作品をおすすめしたいポイントは三つ。
・登場人物達の姿を見て「ちょっと頑張ってみるのもいいかな」と思える。
・ていねいな進み方で、まろやかな読書タイムを過ごせる。
・物語との距離感が心地いい。
この三点です。
それぞれどういうことなのか。
これから順番に紹介していきます。
檜になろうとする「あすなろ」たち
「明日は何者かになろうとするあすなろたち」
この文は、文豪井上靖の『あすなろ物語』にある文章の一部です。
そもそも「あすなろ」とは何でしょうか。
漢字では「翌檜」と書きます。
木の名前ですね。
写真がこちら。
木の形状について特に言及するつもりはありません。
伝えたいのは「翌檜」の語源です。
この木、どのような木なのかというと
「明日は檜(ひのき)になろうとする木」
なのだそうです。
著書の中ではこう語られています。
「あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。でも、永久に檜にはなれないんだって! それであすなろうと言うのよ」
このような意味を込めて
・「檜になろうとするが、結局檜になれなかった者達」
・「檜となっていった者達」
・「そもそも檜になろうとすら思っていない者達」
が描かれているのがこの作品。
以前の記事では「何者でもない自分自身を認めることも大事」と書きました。
しかし、「自分以上の何者かになりたい」という気持ちが沸き起こってくるのを禁じ得ないこともあります。
自分は上の一文を読んだ時、胸からこみ上げてくるものをを感じました。
誰だって、いつだって、「あすなろ」になり得るわけです。
「俺だって一流の人間に・・・!!」
「いつかは一角の人物になってやる」
というような、青臭い理想を持ちながら生きていく作中の若者たち。
彼らのように、檜になろうとしている「あすなろ」に会うと、触発されて自分もちょっと頑張ってみようかなという気にもなります。
そしてそれは決して押し付けがましいメッセージではなく、彼らの生き方に触れて自然と湧き上がってくるものでした。
ていねいに紡がれる物語
古い文豪の作品でよく感じることなんですが、本当に物語の進み方がていねい。
セリフが多く、一文が短いテンポの良い昨今の作品と違い、じっくりじっくり進みます。
最近の作品が、物語を「走らせている」とするなら、それに対して物語を「流している」感じがします。
無理がない。
ゆとりがある。
読み進めている中での疾走感や、読後の爽快感という点では劣っているかもしれませんが、物語に「ついていく」感覚はありません。
物語を味わえる、余裕のある進み方をします。
そこに自分は「ていねい」さを感じました。
物語との適度な距離感
感覚的な話なのですが、読者との距離感がいい。
視点の問題でしょうか。
一人称で書かれているものではないので、少し距離があるんですね。
だから「登場人物になったつもり」で読むのではなく、他人の人生に並走している感じ。
上記で登場人物に「会う」と表現したのもそのため。
この距離感が実に心地いい。
読後に一気に現実に引き戻されたというような感覚がありません。
ちょっと違う世界を覗いた、知らない人の人生に触れた、そんな読後感を与えてくれます。
これは好みの問題なのですが、自分としてはがっつり共感してヘトヘトになるよりは、物語に「そっと触れる」ことができる作品が好きなので、ここをポイントとして紹介しました。
「あすなろ」な登場人物たちに出会い、ていねいな物語に触れ、適度な距離感でまろやかな読書タイムを楽しみたい方は、是非手にとってみてください。
おわり
海がめサーフ
こんばんは。
ロペスです。
あれ?お前昨日更新してたくね?
って感じでしょうが、今日も書きます。
前の記事に書いた通り、書き物の仕事を頂きました。
しかし、残念なことに今までに書いた文章の「量」が全然足りていない。
「質」に至っては言わずもがな。
ということで、ひたすら文章を書いていきます。
そう、やる気が続く限り・・・。
今回からは「日記」ではなく、「記事」を書いていきます。(前回の投稿参照)
ただ、ぽんぽんとネタが出て来るわけもなく、何を書こうかなと。
そこで、自分が幼少期にタカラモノを貯めていた引き出しから「これは・・・!!」とビビッと来たものを紹介していこうと思います。
今回はこちら。
おそらく小学校低学年あたりでしょう。
本が大好きだった自分が、初めて人に向けて書いた文章です。
『がんばれ 海がめサーフ 第一かん』(著:中野 広夢)
まあ地雷のにおいしかしない。
正直記憶もあやふや。
これをいろいろツッコミ入れながら、何とか良さを引き出して紹介していけたらと思います。
まずは表紙から。
そうですね、どこからいきましょうかね。
ここは定番通り、主人公から紹介しましょうか。
異才、中野広夢(幼少期)が生み出した『がんばれ 海がめサーフ』シリーズの主人公。
海がめサーフくんです。
背中に何かついてますね。
ご丁寧に「パワーランプ」と説明がかかれています。
機会と生物の融合、そんな禁忌に果敢に挑戦する小学生低学年。
このころから既に社会への問題提起を行っていたんでしょうか。
それとも怪獣映画の見すぎだったんでしょうか。
よく見ると、サーフくんの後ろにうっすら大きな亀の陰が見えます。
これからのサーフくんの成長を期待させるギミックと受け取ることもできます。
しかし自分の記憶が正しければ、これは単純に大きく描きすぎて消しゴムで消して書き直しただけ。
画用紙でつくっていたので、こういう制作過程が残るんですね。
そんな小さな子どもの試行錯誤が垣間見える微笑ましい表紙です。
次にタコ。
被り物に描かれたドクロマークからは、形にとらわれない、自由な絵画技法を作者が好んでいたことがうかがい知れます。
最後にマンボウ。
お前なんでいるん?
ではページをめくってストーリーをなぞっていきましょう。
みんな同じ方向を向いていますね。
仲良しなんでしょうか。
それとも逆から書くのが大変だったんでしょうか。
そして右下には「生まれてからずっと見はっている」という、プロのストーカーのタコ。
おそらく表紙に載っていた悪役っぽいタコのことでしょう。
そしてマンボウ。
なにしてるん?
で、次のページで急展開。
タコが飛び出てきます。
生まれてからずっと付け狙ってたそうですが、ここで何かを感じたのでしょうか。
「ここだ!今がチャンスだ!」とばかりにサーフに襲いかかります。
読解力の無い私は、一体どのあたりがチャンスなのか皆目検討もつきません。
読者に謎を残すという、高尚な技が使われています。
ところでこのタコ、表紙では頭に被っていたドクロマークの帽子がなくなっています。
何かの布石でしょうか。
謎は深まるばかりです。
視点を文章に移しましょう。
「かあちゃあん」
がいいですね。
めっちゃ叫んでる様子が伝わってきます。
当時読んでいた『ハリー・ポッター』シリーズの影響を受け、感情的なセリフは文字を大きくすることで表現するという技が使われています。
こういう他の作品から技を盗んでくるあたり、作者の積極的な学習の姿勢がうかがい知れますね。
そして次はいよいよサーフが冒険へと旅立つ場面。
「さあ、新しい冒険に出ぱつだあ!!」
ちょっとテンション高いですね。
お母さん意識不明で、恨みから仇を討ちに行く割には結構テンション高いですね。
あと「新しい」という表現にも疑問が残ります。
一体何が「新しい」のか。
これはもしかして、今後サーフくんの過去を描く予定で、その時の冒険と比較して「新しい」という表現をしているのでしょうか。
解釈が無限に広がる味わい深い文章ですね。
場面変わってサーフは仲間に恵まれます。
「アイテムや地図を手に入れてつぎなる海へ行きます」ということで、冒険の地道な歩みが全てカット。
物語は面白いところだけでいいんだ。
そんな作者の物語観が表れている一文です。
そしてマンボウ。
博士だったんですね。
家族襲われるまで一緒にいてて、襲われているときには姿を消していたマンボウさん。
これを仲間にしてしまうのは人選ミスではないでしょうか。
それとも、そういう弱さがあるマンボウでも、仲間として受け入れるサーフくんの懐の広さを表現したかったんでしょうか。
読み手によって解釈がわかれますね。
ここで新キャラの「たなごけいびたい」の登場です。
失礼を承知で申し上げると、「たなご」という魚、正直キャラとしてあまり立たないように思います。
そして「けいびたい」という役職に関しても、どっちかというと「守る」お仕事ですよね。
攻めに行ってますけど、やる気満々って言ってますけど、大丈夫でしょうか。
これは登場人物にあえて「欠点」を与え、物語の人物間のパワーバランスを調整する目的があるのでしょうか。
この先、要チェックですね。
さて、読み進めていく内に、どんどん気になる点や素晴らしい点が出てきました。
とてもじゃありませんが一回分の記事にまとめきれません。
ということでこの続きはまた次回。
おわり