「目に見えない問題を見える化する」【研究者】岡村 優努
こんにちは。
ロペスです。
昨日は関西大学の修士一年生、岡村優努くんと話をしてきました。
教育界隈で活動していて、お互いの名前は一度や二度聞いたことがある程度だったのですが、SNSで接触してきてくれたことから今回の話につながりました。
研究者を目指し、現場と研究双方の感覚を併せ持つ岡村くん。
今回はその話の内容について書いていきます。
■謙虚な研究者のたまご
待ち合わせは難波のROUND1。
「場所よくわからないけど、赤い糸で繋がってると信じて向かうね」
とジョークを投げると
「会わないかもしれないッスネ(笑)」
と返ってくる。
「今日はフランクにいけるかな?」と構えを少し崩して待ち合わせ場所へ。
少し待つとTシャツ短パンの華奢な青年が笑みを投げかけてきました。
「こんにちは!」
自分の服装を見直すと、ポロシャツとカーゴパンツ。
お互いのラフな格好を見て、ちょっと張っていた気持ちが和みました。
「いやー、この格好でいいのか心配やってんけど、いけそうやな(笑)」
と軽く挨拶。
腹ごしらえのため河童ラーメンへ。
狭い教育の世界です。
名前はお互い知っていたので自己紹介も特に必要なく、間を置かず一気に議論に花が咲きました。
ここで軽く岡村くんの紹介をしておくと、大阪大谷大学在学時、大阪の「箕面こどもの森学園」で一年間インターンを経験し、卒業論文ではオルタナティブスクールを研究対象に。
卒業後、教育社会学と教育行政学を学ぶために関西大学の修士課程へ進み、現在に至ります。
彼と自分との接点は、自分がフリースクールについて調べていて行き詰まっている時にSNSで声をかけてくれ、卒業論文を送ってくれたことから始まります。
正直初めはあまり良い印象を持っておらず、インテリ風のキザで華奢な感じの学生というように見ていました。
ただ、彼自身そのように見られやすいことを意識しており、処世術としてていねいな敬語、腰の低い態度を身に付けていました。
それは共感するところがあり、
「お互い弁が立つと苦労するよね」
なんて話でも盛り上がりました。
とにかく、自分の持っていた先入観は崩れ去り、謙虚な研究者のたまごとして岡村くんと議論をすることになりました。
■conviviality(コンヴィヴィアリティ)
初めの議題はイヴァン・イリイチのconvivialityについて。
convivialityとは何か?
難しい概念なので具体的な例を出して説明してみます。
学校を例に出してみましょう。
学校にはルールがあります。
廊下を走ってはいけない、授業は座って聞く、私語をしない・・・etc
このようなルールに対して、現状の子どもたちは従う他に術を持たず
「そのルールはおかしいんじゃないか。修正の必要があるのではないか。」
と言うことが出来ません。
この状態をconvivialityが無い、と表現します。
つまり、ここでの例で言うと、多少強引ではありますがconvivialityとは「権限」と言い換えることができます。
ただ少しニュアンスが違って、「権限」はどちらか一方が持つものという印象ですが、convivialityにあるのは「お互いに」という公共性。
なので便宜上
conviviality≒権限
としておきます。
上記の例を用いると、権限を子どもに渡すというと
「子どもの好き勝手にされるじゃないか!!」
という反応をする人がいると思います。(自分もそうでした。)
しかし、それに対して学校側も
「好き勝手にするのはおかしい」
という権限を持っているというのが大事なところ。
つまりconvivialityがあるというのは、学校と子ども両方に同等の権限が有り、対等な立場で物事を決めていけるような状態なのです。
岡村くんは公教育では「子どもにconvivialityが無く、人権が侵害されている」と主張します。
現場で支配的に教員をしていた自分にとって、この話は衝撃的で「子どもに権限など渡したらろくなことにならない」という不安が払拭できずにいましたが、彼はそれでも「子どもを1人の人間として尊重するなら大切なことです。」と言います。
続けて彼は、上記のように一見当たり前のように見えても、実はそこで苦しんで不登校になったり、精神的に苦しんでいる人もいることを指摘。
「僕は『見えていない問題を見える化』する研究者を目指しているんです。」
と話します。
当たり前だと思っていることの中にも、実は問題が隠れていて、見えにくいだけでどこかで誰かが苦しんでいるかもしれない。
自分はそれ見えにくくしているものをはがして見えるようにしていきたい、そういう研究者になりたい。
語調こそ穏やかだったものの、眼に力をこめ、そう語りました。
もうこの時点で自分の岡村くんへ対する見方は大きく変化していました。
まず、「べき」や「ねば」といった言い方をしない。
これらの言葉は「世間が」「社会が」「他人が」と、本人以外の主語がくるため、その当人と話してる感じがしないんですよね。
彼はそういったあやふやな言葉を使わず、「僕が」とていねいに主語を立てる。
そして必ず相手の主張を尊重する。
会話の中で、自分はそんな岡村くんの人当たりの柔らかさに、次第に魅力を感じ始めていました。
研究者という怜悧で冷たい印象のおカタい人物ではない、心根の優しい人。
そんな印象を持ちはじめていました。
■「言葉」から漏れ出たコミュニケーション
次に場所を移し居酒屋へ。
おいしいお寿司に舌鼓を打ちながら、共通の友人の話をしたり、真面目な議論から少し離れた人間臭い話をしたり。
「ほんと腹立ちましたからね!!」
と過去の経験を語気を荒げて話す岡村くんは、飲んで、笑って、怒る一人の若者でした。
そんな中で次第に岡村くんと通じ合うような感覚がしてきました。
勘違いだったら自分がただのイタい奴なんですが、彼もそれを感じており、今度はカフェへ場所を移して「言外のコミュニケーション」という議題で話しました。
突然ですが、あなたはこんなコミュニケーションとった経験はないでしょうか。
自分の家に来客者がいるとします。
来客者はうちわを仰ぎながら「この部屋暑いね」と言いながら顔をしかめています。
この場合、あなたならどうするでしょうか。
1,「たしかに暑いね」と同調する。
2,「クーラーつけますか」と聞く。
大概の人は2を選ぶのではないでしょうか。
客人の「暑いね」というメッセージの裏に「なんとかしてくれ」という、別のメッセージを読み取れたなら2を選ぶと思います。
これが「言外のコミュニケーション」です。
相手の発言を「言葉」に注目し、それだけで受け取るとこの選択は出来ません。
言葉以外の表情、視線の方向、そんなところから「言葉」の背景にあるメッセージを推測し、相手の意図を読み取る。
この「言外のコミュニケーション」が岡村くんとの間で円滑に行われていたからこそ、通じ合ってる気がするのだと、2人で話していました。
そして、これを子どもとのコミュニケーションだけに限らず、関わるあらゆるものと、あらゆる方法でのコミュニケーションを大切にしたいと、岡村くんは言います。
「先入観や、相手をこうしてやりたいという気持ちでコミュニケーションをしていると、言外のコミュニケーションは伝わらないんです。そこを円滑にするために、僕はコミュニケーションでは人間対人間という姿勢で臨むことを大切にしています。」
怜悧でカタい印象の研究者。
その先入観で見ていると、おそらく岡村くんのことをずっと誤った見方をしていたと思います。
今回話をする中で、肩書を脱ぎ、ひとりの人間として現場で人との関わりをていねいに行い、優しい研究をしていきたいと語ってくれた岡村くん。
その心根に胸を打たれた1日でした。
ありがとう。
おわり