ロペペディア

日々の雑感

インプロビゼーション

こんばんは。
ロペスです。


子どもの頃、演劇が好きでした。
絵本の『エルマーの冒険』の劇でゴリラを怪演し、客席にどよめきを起こしたのが小学生のころ。
それ以来演技をする機会はほとんどありませんでしたが、才能は錆びずに私の中でひたすらその時を待っていました。

そしてその才能が花開く時が訪れます。
大学二年生の時のこと。
私はインプロビゼーション、通称インプロに出会いました。

 

今回はそのインプロビゼーションについて。お話をしていきます。



インプロとは?

 

 

インプロとは、即興演劇のことを指します。

台本がなく、その場の雰囲気や相手の発言、アイデアなどから演技を行うプログラムです。
簡単に言えば全部アドリブの劇。


元々は俳優の演技のトレーニングとして生まれたものですが、今では企業研修や学校のワークショップなどで取り入れられています。

 

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『マスク』で有名な俳優、ジム・キャリーなどもインプロを取り入れています。



このインプロ、面白いところがあって「間違い」という概念がないんです。
台本がないからこそ、正解がない。
どんなアイデアも、発言も、アイデアも同等に価値がある。

 

「正解を出さなければならない」という呪縛に囚われた現代人にとって、この考え方は新しく、自分を開放するワークショップとして各地で広がりをみせているのです。



インプロとの出会い

 

 

大学二年生の頃、私は初めてインプロに出会います。

「ちょけ・ラテ」という、インプロのワークショップを行う団体の先輩とお会いし、よくわからないまま団体に加入しました。

 

chokelatte.jimdo.com


メンバーの方々は優しい人ばかりで、本当に温かい場所で、今でも大好きな場所です。

  

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ワークショップを行う大学時代の私


ワークショップも柔らかい、あたたかい、団体の理念を反映した優しいものでした。

参加者にほっこりしてもらって、元気になって帰ってもらう。
そんな活動に関われていたことを誇りに思います。

 


ワン・ピクチャ

 


様々あるワークショップの中で、私が一番好きなのがワン・ピクチャと呼ばれるもの。

簡単に言うと、制限時間内に出されたお題について静止画をつくるというものです。

 

まず4〜7人くらいのグループにわかれます。


次にグループごとにテーマが与えられます。
例えば「結婚式」

グループメンバーは指定されたテーマについて、5秒以内にその場で役になりきってポーズをとらなければなりません。

 

花嫁役をする人。

花婿役をする人。
神父をする人。


などなど。

当然配役がかぶることもありますが、正解がなければ間違いもない。

花嫁が二人いてもいいわけです。

「ああ、お婿さんお盛んなんだな」

で済みます。

 

またトンチをかましてくる人もいて、花嫁を奪いにきた男や、教会の十字架など、様々な配役が生まれるのも個人的に面白いなと思います。

 

ただ大事なのは「面白いことがいい」のではない、ということ。
面白くなくてもいいんです。
わけがわからなくてもいいんです。

そういったものを含めて受け入れるのがインプロです。

 

ポーズをとり終えたら、他のグループの人たちにテーマが何かを当ててもらいます

 

「運動会かな?」

「いや、球技大会じゃね?」
「でも二人向かい合って見つめ合ってるよ」
「あっ!結婚式!」

 

ってな感じです。

 

最後に、ポーズをとった人たちにインタビューをします。

「あなたは何ですか?」

と。それに対して

「私は花嫁です。」

と答えるわけです。
これで終了。

 


インプロの根底に感じるもの

 


インプロほど優しいワークショップを、いまだかつて経験したことがありません。

インプロのワークショップにある哲学として「Yes.And...」という考え方があります。

相手の考えを一旦受け入れ、そこに自分の考えをプラスしていく。

決して相手を否定しないこと。

こうした哲学が、インプロの根底にはあります。


自分の主張がどんな形であれ、その場に受け入れられるのです。

評価ではなく、承認で成り立つ場づくり。

そんなワークショップがインプロです。


自分はいつも、評価や正解や常識などに縛られてギスギスしている時、このインプロの環境に帰っていました。

そこで大事にしていたことを思い出すためです。

 

相手を受け止め、価値付せずに承認する。

毎回ここに戻る度、視野狭窄に陥って独善的な判断をしている自分をチューニングしています。


最近忙しくて参加できなくなりましたが、またインプロやりたいなあと、時々思います。
興味のある方、インプロで一緒に遊びませんか?

 

 

 

おわり

幸せに夢は必要か

こんばんは。

ロペスです。

 

 

加古川のメディアに出演するかもしれないということで、最近ダイエットを始めました。

まあうまく行った試しは無いのですが、とりあえず頑張ってみます。

 

自分もね、女性の前で「きゃー!!」とか言われたいわけですよ。

「あの素敵な人、どこの人!」とか騒いでほしいわけです。

「何しに来たんだろう!?お買い物かしら?」とか詮索もされたい。

 

今の状態だと、多分「ぎゃー!!」ってなる。

「何あの熊!!どこから降りてきたの!!」って騒ぎになる。

「何しに降りてきたの!?山の餌が足りないの!!」みたいな詮索される。

 

それは避けたいわけです。

ということで、ダイエット、始めます。

 

そんな決意を新たにしたところで、今回のお話。

「夢」についてです。

 

小さい頃の夢

 

小学校の頃、自分は将来の夢を見つけていた人でした。

 

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小学生の頃の私

 

FBIになりたかったです、はい。

まあ子どもの夢なんで、今考えれば現実味のない話です。

しかし、当時はなるためにどうすればいいのか、本気で考えていました。

日本で警察になって、いい成績とるとか、体鍛えて強くなるとか、そんなレベルのことしか頭に浮かばなかったです。

でもそれを頑張れば、本気でなれると信じていた無垢な時期でした。

 

今は別の夢を追いかけて、当時想像していた場所とは程遠いところに立っています。

後悔は全くありません。

しかし、今でも海外ドラマや映画などでFBIやCIAのエージェントを見ると、あの頃の心沸き立つような想いが蘇ります。

それはそれでいい思い出として、「幼かったなあ」という回想に浸り、幼少期を懐かしみます。

 

 

「夢」で引っ張るキャリア教育

 

「夢」には色んな力がありますよね。

目の前の勉強を頑張る力になったり、逆境を乗り越える力になったり、色々。

 

教育でもその力に着目し、子どもたちに主体的に勉強に取り組んでもらおうと、「夢」を使った様々な授業が行われています。

いわゆるキャリア教育というのもそうです。

 

実際に私は昔大学生だった頃、ある活動で、学校の子どもに夢を伝え、夢を引き出す目的の授業に参加したことがあります。

それはとても素晴らしい取り組みで、アツい夢を持った大学生たちが子どもと関わることで、あこがれを持ってもらったり、夢を持ってもらえるよう頑張っていました。

子どもたちもアツい大学生たちに感化され、頬を上気させながら夢を聞いたり、語ったり・・・。

このような場はとてもエネルギッシュで、夢を持っている人たちにとっては、とても心地の良い環境です。

 

ただ一部、そこでしんどい子どもがいたことに、自分は気づけていませんでした。

 

 

ネガポジ・メソッド

 

 キャリア教育で「夢」を扱う場合において、大抵夢を持っていることが良しとされます。

当然上記にあげた力があるので、持てるなら持っていたほうがいいと、私も思います。

 

ただ、持てない子もいるのも事実。

これは子どもに限らず、大人もそう。

余談ですが、ネットで一時期バズってた話があります。

 ーーーーーーーーーーーーーーーー

10代の頃の夢「社長」

20代の頃の夢「部長」

30代の頃の夢「課長」

40代の頃の夢「鳥」

ーーーーーーーーーーーーーーーー 

みたいな笑い話。

もうね、40代キツイですね。

鳥になって羽ばたきたいんでしょうね。

 

この話は置いておいて、大人も子どもも、辛く厳しい時代の中で、夢を持ちづらくなっているのが現状です。

経済不況、格差問題、紛争、色々大変な時代です。

 

「夢」で引っ張っていくのは、限界が来ているのではないか。

そう思い始めたのが去年くらいのこと。

自分自身しんどい時期で、「夢」を失い、自己啓発的なメッセージや綺麗事に辟易としていた時期でした。

 

その時出会った考え方がこちら。

www.lifehacker.jp

 

もう度肝抜かれましたね。

この方法があったかと。

 

やりたいことや夢なんて見つからなくても、やりたくないことなら山のようにある。

ならば消去法で、ボーダーラインを越えることをまず目的にする。

その中からやりたいことが出てくるかもしれない。

 

これは新しいし、ポジティブの押し付け感もない。

幸せに夢が絶対必要だと思っていた自分にとっては、大きな価値観の転換でした。

 

最悪でなければ、それでいい

 

 

最悪でなければそれでいい。

消極的かもしれませんが、その考え方は「夢を持ってそれを叶えなければ幸せになれない」と思い込んでいた自分をとても楽にしてくれました。

 

夢は素敵なもの。

それは確かです。

 

でもやりたいことや夢が中々持てなくても、人は幸せになれる。

生きていける。

 

そういう、ある程度ゆるさのある生き方も悪くないかなと、最近は考えています。

 

 

 

おわり

 

 

【教育座談会】「求められる能力」って、誰が求めてるの?ー岡村 優努×ロペス×片岡 利允

こんばんは。

ロペスです。

 

 

今日はちょっと専門的な内容を。

 

今朝、新学習指導要領を読んで友人たちと座談会を行いました。

参照URL

新学習指導要領(平成29年3月公示):文部科学省

 

学校で「何を」「何のために」教えるのか。

教える際にどのようなことに気を配れば良いか。

それが記されているのが学習指導要領です。

これには法的拘束力があり、最低限教えなければいけない「must」なものです。

 

教育に身を置くものとしては、目を通しておきたいものですが、正直読み込んでいる人はあまりいないのが現状。

なぜなら、別に学習指導要領を見なくても、それに基いてつくられている教科書に沿って授業を行えばそれで事足りるからです。

 

しかし教科書だけに頼らず、教材の段階からつくろうとしている者たちにとっては、日本の教育の方向性を知るための貴重な資料です。

ということで、興味を持ちそうな友人たちを集めて座談会を行うことにしました。

 

集まったのは3人。

以前このブログでも紹介した関西大学大学院の修士課程一年生の岡村 優努くん。

・インタビュー記事

ropeth0313.hatenablog.com

 

大学の後輩であり、奈良県の公立小学校教員の「とっくん」こと片岡 利允。

・彼のブログ

tokkun1225kotonakare570.hatenablog.com

 

そして私ロペス。

この3人です。

 

当初、学習指導要領についてはもう少し読む予定でした。

しかし、それぞれの想いや課題意識が溢れ出て議論が深まったので、結果的に良かったかなと。

本当に濃いメンバーで、よどみ無くテーマが出てきて、どんどん議論が進み、本当に楽しかったです。

 

 

そんな本日の座談会。

スパイスの効いた3人のカオスな鼎談、是非ご賞味下さい。

 

 

「求められる能力」って、誰が求めてる?

 ーーーーーーーーーーーーーーーーー

まず最初に、改訂のポイントを3人で黙読。

 

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これを叩き台に

 

そして気になるところを挙げて、それについて議論をしていこうという話になりました。

黙読の後、岡村くんが

 

「この『子供たちに求められる資質・能力』って、誰が求めてるんですかね。」

 

と疑問を投げかけ、これが議題に。

とっくんは「なんやねんこれ」「どういうことやねん」と新学習指導要領にいろいろ思うところがあるみたいで、ブツブツ言いながら読んでいましたが、岡村くんの疑問に共感。

上記の疑問をそれぞれ考えていくことに。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 片岡:ここに書かれている『求められる能力』って「社会全体が」求めてるって感じですね。

 

ロペス:うーん・・・社会全体が必要だと考える能力、それを持った子どもに育てるために国に雇われたのが教師だとすると、教師もそうなんじゃない?

 

岡村:公務員は全体の奉仕者ですから、そうですね。教師は子どもを教育することを通して社会に奉仕しています。ただ、そこで子どもも奉仕者にさせられていると思うんですよ。

 

片岡:それなんか・・・わかる、わかるわかる!!

 

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右の図が教師から子ども、子どもから社会への奉仕の流れ図。本来は左の図のイメージ。(とっくん作)

 

片岡:本来、教師は子どもも含めた社会全体に奉仕をするイメージ。でも実際は一部の偉い大人たちがつくる社会で、子どもが社会から切り離されている。そして教師は子どもを通して社会に奉仕をしている。

 

ロペス:一部の偉い大人がつくった社会から、教師を通して「こう育つべきだ」っていう押し付けがあって、子どもがそれに従う形で社会に奉仕させられているってことね。それについて岡村くんはどう思うの?

 

岡村:僕はしたくないですし、されたくないです。

 

ロペス:ハッキリ言うね(笑)

 

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岡村:この文章の「求められる能力」の中では、子どもの成長したい像が無視されています。一部の大人がつくっている社会を通して「教師」から一方的に押し付けられている。お互いに「人間」と「人間」なら対話によって交渉の余地があっても、「教師」と「子ども」となった瞬間、そこに権力関係が生まれるんです。子どもは教師に従うもの。そういう関係になったら子どもにconviviality(コンビビアリティ)が無くなってしまう。

 

ロペス:なるほど。人間同士の関係なら対等でも、肩書がついた途端そこに権力関係が生まれて、一方が一方に従わされるという状況に陥ってしまうってことね。確かに学習指導要領では子どもが育ちたい姿は考慮されていなくて、一部の大人が構成する社会や教師が権威を持って方向づけしてるよね。

 

岡村:学習指導要領なんで、学習する子どもが主役のはずなんですけどね。子どもの話は出てこないですね。

 

 ※conviviality(コンビビアリティ)

権限。その事柄に対して、意見を述べたり干渉したりする力。公共性があり、どちらか一方に属するものではなく、お互いが共有するもの。

続きを読む

「ああいう子にこそタカラモノはいっぱいつまっているもんだ」

こんばんは。

ロペスです。

 

 

ライターになると決めてから一週間以上経ちました。

怒涛の一週間でした。

あっという間に過ぎたように感じます。

右も左もわからず、ひたすら関連書籍を読んで勉強し、バズったブログ記事を読み漁って、構成や表現方法を頭に叩き込んで、わけもわからず見よう見まねでこのブログに書きまくりました。

 

そんな中で、このブログに足を運んでくれる人が増え、

「良かったよ」

「あそこ行ってみたいと思った」

というコメントを頂けるようになり、その度に本当に涙が出そうになりました。

 

教育がしたかった

 

ただ、はじめからそのような気持ちがあったわけではありません。

自分は本当は教育がしたかった。

教育者として力を磨いて、教育がしたかったんです。

 

でもそれが出来ない。

ですので、ライターをはじめた時「なんでライターなんて・・・」という気持ちがありました。

 

自分は教育をやりにきたのだ。

なんで物書きなんて。

 

そんな気持ちを自分の中にぐっと押し込み、仕事をしました。

 

しかし、この一週間同僚や先輩と話したり、読者からのコメントを頂く度、自分は自分のしたいことができていることに気づきました。

 

 

「まだ誰も見つけていないヒト、モノ、コトの持っている『タカラモノ』を見つけて、捕まえて、拡散したい。」

 

 

この想いは教育でなくとも、ブログを書くという方法で実現できていました。

一週間で気づけたのは、このブログを書くのに関わってくれた仲間のおかげです。

本当に感謝しています。

 

「ああいう子にこそタカラモノはいっぱいつまってるもんだ」

 

自分が教員時代好んで読んでいた本に、灰谷健次郎の『兎の眼』というのがありました。

その中の登場人物の一人に足立先生という人物がいるんですが、私はこの先生が大好きです。

この先生は、学校の中で先生たちが手を焼いている子どもに対して、次のように言います。

 

「ああいう子にこそタカラモノはいっぱいつまっているもんだ」

 

他の先生たちがどうしようもないと賽を投げるくらいの子どもに対して、これを言うんです。

この姿勢に自分は感銘を受けました。

自分もそうなりたい。

真剣に思いました。

 

今は教育という領域から離れていますが、ライターとして、地域に眠っているまだ誰も見つけられていないたくさんの「タカラモノ」を見つけたい。

そして色んな人にその良さや面白さを伝えていきたい。

 

その為にも、もっと表現の技術を磨き、「タカラモノ」を探せる洞察力を磨き、皆さんにそれを伝えていけたらと思います。

 

このブログも毎日50名以上の読者がアクセスしてくれるようになりました。

これからもより良い記事を、たくさんの「タカラモノ」を皆さんに紹介できるよう頑張っていきます。

今後もよろしくお願いします。

 

 

おわり

 

 

 

 

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海ィィィ!!!ー【あらい浜風公園】

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どうも。
ロペスです。

 

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フォー!!!
アッハッハッハッハー!!



すみません、取り乱しました。

海を見ると、どうしても、こう…くるんですよね。
「何か」が。

 
私は生まれてから長年奈良暮らしで、周りは全て山という盆地環境で育ちました。
海なんてもの、当然身近に存在しない。
ということで、とりわけ「海」に強烈な憧れを持っていまして、見るとどうしても胸の高鳴りを禁じ得ないわけであります。

 

つまり海大好きなんです。
もうめっちゃ好き。
どれくらい好きかというと、

「海の幸か山の幸か」

と聞かれれば、間を置かず

肉の幸!

と答えるくらいに肉が好きです。

 

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肉ゥゥウウ!!!
アッハッハッハッハー!!

すみません、間違えました。
海の幸が好きです。

そんな私の心を常ならない状態にまで惹きつける「海」。
そこへ私はやってきました。

 

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「あらい浜風公園」

今回はこの場所について、ご紹介していきたいと思います。

 

 

長い長い道

 

あらい浜風公園は、加古川市の国道250号線(通称「浜国」)を西に進み、43号線に入って南西に向かったところにあります。

 

入口をくぐると、海へ続く長い道が…。

 

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…。

 

 

え、長っ!!!


海まで、かなりの距離があります。
そのため海岸線近くまで車で行けるよう、車道が奥まで走っています。

 

なぜこんなに長いんでしょうか。

 

これには少し深いわけがあります。

この辺りは昔から「白砂青松」と呼ばれる風光明媚な場所で、近隣の方々に親しまれていたようです。
しかし高度成長期、工場地帯の中枢を担っていた臨海部は開発が進み、海岸線をどんどん埋め立てたそうです。
そのため、海辺が遠くなり、海岸線が失われてしまったという悲しい歴史があります。

 

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遠くなる海辺

 

ですが、その方向性に反感を持った地元市民の働きにより、海に親しみを持てるような海辺環境の整備が、県をあげて行われるようになりました。

 

その結果出来上がったのが、この
あらい浜風公園
です。

 

この長い長い道は、たとえ遠くとも、海辺を向かう気持ちを忘れずに、一歩一歩海岸線に進んで行った地元市民の軌跡なのです。

 

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長い道の先

 

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眼前に広がる海

 

 

周辺環境

 

あらい浜風公園の魅力は、ひらけた景色や、青と白を分け隔てる水平線など、海に関わることばかりではありません。

付近にはビオトープのようなものがあり、自然を楽しむことができます。

 

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ビオトープ

 

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これは…カワニナ

 

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何かいろんな植物(適当)が生えている


また、面白い仕組みの池も見つけました。
何でも潮の満ち引きと連動して、池の水位が変わる池なんだそうです。

 

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地下で海と繋がっている?

 

この他にも、広い芝生では小さい子とご両親が遊んでいる微笑ましい様子が見られたり、愛を深め合うカップルが見られたりします。
訪れる様々な人たちの憩いの場として、愛されている公園であることが感じて取れました。

 

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是非皆さんも一度遊びに行ってみて下さい。
そしてその際は少し遠いですが、是非ご自身の足で、海の景色が見える場所まで歩いてみて下さい。

 

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黄昏時の公園

 

おわり

姫路のシリコンバレー【コワーキングスペース「mocco」】

こんにちは。

最近体重が人の域を超えました。

ロペスです。

色々なダイエットを試しているのですが全く成果は出ず、増える一方。

誰も私を減らせません。

 

 コワーキングスペースとは・・・?

 

今日はそんな私でもスタイリッシュを目指せる夢のような場所を見つけました。

それが「コワーキングスペース」という呼ばれるもの。

もう名前からしてスタイリッシュ。

かっこいい。

私のような巨漢でも、MacPC叩いてたらスタイリッシュに見える。

 

すみません言い過ぎました。

 

 

今日利用させていただいたのは、姫路にあるコワーキングスペース「mocco」です。

 

moccomocco.net

 

 

コワーキングスペース、皆さんは聞いたことがありますか。

私は詳しく知りませんでした。

同様に聞きなれない方も多いと思います。

それもそのはずで、この言葉や場所が日本で市民権を得たのは、ほんの4,5年前のことだからです。

結構新しいものなんですね。

 

 

 

そもそもコワーキングとは何でしょうか。

コワーキングとは、事務所や会議室などを共有しながら、利用者それぞれが個々に仕事をする働き方です。

コワーキングスペースはそれを行う場所のことを指します。

 

自分で事務所を持つ必要がないため、その分コストを減らすことが出来るのと、そこで一緒に仕事をしている人たちと出会うことで新たな仕事が生まれる可能性があったりと、利用するメリットはたくさんあります。

 

ここ「mocco」もそのような場所の一つ。

起業家、フリーランスなどの方々が集まり、日々仕事をしたり、常連仲間と会話を楽しんだり、またその中から新たなビジネスが展開したりしています。

 

 

つまりコワーキングスペースとは、色々なビジネスが動き、それらが交わることで新しいものが生まれる、シリコン・バレーのような環境なのです。

 

 

ではその魅力を一つ一つ紹介していきましょう。

 

 

コワーキングスペース「mocco」

 

姫路駅から徒歩7分。

城陽ビルの4Fに、コワーキングスペース「mocco」はあります。

 

 

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城陽ビル入口

 

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ビル前に置いてある看板 

 

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「mocco」入り口

手書きのかわいい看板が迎えてくれます。

 

 

入り口の戸を開けると、まず一番はじめに目に入るのはフライヤーの棚。

これだけ見ても相当な数です。

多くのビジネスがここで動いていることがわかりますね。

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 フライヤーの棚

 

 

歩を進めると、ゆったりと落ち着ける仕事スペースが広がっています。

利用者の方々がそれぞれ仕事をしており、見知った人と雑談を交わす様子なども見られます。

 

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仕事スペース。椅子の座り心地は最高でした。

 

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雑談を交わす利用者の方々。

壁面はイベント告知やプロジェクト広報、仲間募集などのスペースになっており、自由に書き込めるようになっています。

 

 

また、快適に仕事ができるよう環境や設備も整っており、wifiは完備、コンセントがあるためPCやタブレットを持ち込んで仕事を行うことが出来ます。

その他に複合機、大判プリンターなどの設備、ドリンクバー、電子レンジ、更にはなんとキッチンまであり、飲食環境も整っています。

 

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複合機。資料の印刷などに使えます。

 

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大判プリンター。

 

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ドリンクバー。

 

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まさかのキッチン。

 

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え・・・?これハンモック?

 

値段

 

そして最後。

これだけの整った施設だから、さぞかしお高いんでしょうとお考えの皆さん。

朗報です。

目ざとい方は最初の看板の写真で既にお気づきかと思いますが、本当にお手頃な値段設定。

料金はなんと

 

1日利用して1,000円ポッキリ

 

なんです。

一ヶ月利用だと

 

9,800円

 

とんでもないことです。

もう近所に欲しいくらいです。

むしろ姫路の近所に住みたい。

 

 

今まで外で仕事をするときは、大体カフェでした。

高いコーヒー買って、店員の「お前まだいんのかよ」という視線と戦いながら作業をしていました。

それが1,000円ポッキリで一日中仕事ができる環境があるなんて。

これからここ使っていこうかな・・・。

是非みなさんも姫路にお越しの際は「mocco」を利用してみて下さい。

 

 

おわり

 

「目に見えない問題を見える化する」【研究者】岡村 優努

こんにちは。

ロペスです。

 

 

昨日は関西大学修士一年生、岡村優努くんと話をしてきました。

教育界隈で活動していて、お互いの名前は一度や二度聞いたことがある程度だったのですが、SNSで接触してきてくれたことから今回の話につながりました。

 

研究者を目指し、現場と研究双方の感覚を併せ持つ岡村くん。

今回はその話の内容について書いていきます。

 

■謙虚な研究者のたまご

 

待ち合わせは難波のROUND1。

 

「場所よくわからないけど、赤い糸で繋がってると信じて向かうね」

 

ジョークを投げると

 

「会わないかもしれないッスネ(笑)」

 

と返ってくる。

「今日はフランクにいけるかな?」と構えを少し崩して待ち合わせ場所へ。

少し待つとTシャツ短パンの華奢な青年が笑みを投げかけてきました。

 

「こんにちは!」

 

 自分の服装を見直すと、ポロシャツとカーゴパンツ

お互いのラフな格好を見て、ちょっと張っていた気持ちが和みました。

 

「いやー、この格好でいいのか心配やってんけど、いけそうやな(笑)」

 

と軽く挨拶。

腹ごしらえのため河童ラーメンへ。

 

狭い教育の世界です。

名前はお互い知っていたので自己紹介も特に必要なく、間を置かず一気に議論に花が咲きました。

 

ここで軽く岡村くんの紹介をしておくと、大阪大谷大学在学時、大阪の「箕面こどもの森学園」で一年間インターンを経験し、卒業論文ではオルタナティブスクールを研究対象に。

卒業後、教育社会学と教育行政学を学ぶために関西大学修士課程へ進み、現在に至ります。

彼と自分との接点は、自分がフリースクールについて調べていて行き詰まっている時にSNSで声をかけてくれ、卒業論文を送ってくれたことから始まります。

 

正直初めはあまり良い印象を持っておらず、インテリ風のキザで華奢な感じの学生というように見ていました。

ただ、彼自身そのように見られやすいことを意識しており、処世術としてていねいな敬語、腰の低い態度を身に付けていました。

それは共感するところがあり、

 

「お互い弁が立つと苦労するよね」

 

なんて話でも盛り上がりました。

とにかく、自分の持っていた先入観は崩れ去り、謙虚な研究者のたまごとして岡村くんと議論をすることになりました。

 

 

■conviviality(コンヴィヴィアリティ)

 

初めの議題はイヴァン・イリイチのconvivialityについて。

 

convivialityとは何か?

難しい概念なので具体的な例を出して説明してみます。

学校を例に出してみましょう。

学校にはルールがあります。

廊下を走ってはいけない、授業は座って聞く、私語をしない・・・etc

このようなルールに対して、現状の子どもたちは従う他に術を持たず

「そのルールはおかしいんじゃないか。修正の必要があるのではないか。」

と言うことが出来ません。

この状態をconvivialityが無い、と表現します。 

 

つまり、ここでの例で言うと、多少強引ではありますがconvivialityとは「権限」と言い換えることができます。

ただ少しニュアンスが違って、「権限」はどちらか一方が持つものという印象ですが、convivialityにあるのは「お互いに」という公共性。

なので便宜上

 

conviviality≒権限

 

としておきます。

 

上記の例を用いると、権限を子どもに渡すというと

「子どもの好き勝手にされるじゃないか!!」

という反応をする人がいると思います。(自分もそうでした。)

しかし、それに対して学校側も

「好き勝手にするのはおかしい」

という権限を持っているというのが大事なところ。

つまりconvivialityがあるというのは、学校と子ども両方に同等の権限が有り、対等な立場で物事を決めていけるような状態なのです。

 

岡村くんは公教育では「子どもにconvivialityが無く、人権が侵害されている」と主張します。

現場で支配的に教員をしていた自分にとって、この話は衝撃的で「子どもに権限など渡したらろくなことにならない」という不安が払拭できずにいましたが、彼はそれでも「子どもを1人の人間として尊重するなら大切なことです。」と言います。

 

続けて彼は、上記のように一見当たり前のように見えても、実はそこで苦しんで不登校になったり、精神的に苦しんでいる人もいることを指摘。

 

「僕は『見えていない問題を見える化』する研究者を目指しているんです。」

 

と話します。

当たり前だと思っていることの中にも、実は問題が隠れていて、見えにくいだけでどこかで誰かが苦しんでいるかもしれない。

自分はそれ見えにくくしているものをはがして見えるようにしていきたい、そういう研究者になりたい。

語調こそ穏やかだったものの、眼に力をこめ、そう語りました。

 

もうこの時点で自分の岡村くんへ対する見方は大きく変化していました。

まず、「べき」や「ねば」といった言い方をしない。

これらの言葉は「世間が」「社会が」「他人が」と、本人以外の主語がくるため、その当人と話してる感じがしないんですよね。

彼はそういったあやふやな言葉を使わず、「僕が」とていねいに主語を立てる。

そして必ず相手の主張を尊重する。

会話の中で、自分はそんな岡村くんの人当たりの柔らかさに、次第に魅力を感じ始めていました。

 

研究者という怜悧で冷たい印象のおカタい人物ではない、心根の優しい人。

そんな印象を持ちはじめていました。

 

 

■「言葉」から漏れ出たコミュニケーション

 

次に場所を移し居酒屋へ。

おいしいお寿司に舌鼓を打ちながら、共通の友人の話をしたり、真面目な議論から少し離れた人間臭い話をしたり。

 

「ほんと腹立ちましたからね!!」

 

と過去の経験を語気を荒げて話す岡村くんは、飲んで、笑って、怒る一人の若者でした。

 

そんな中で次第に岡村くんと通じ合うような感覚がしてきました。

 

勘違いだったら自分がただのイタい奴なんですが、彼もそれを感じており、今度はカフェへ場所を移して「言外のコミュニケーション」という議題で話しました。

 

 

突然ですが、あなたはこんなコミュニケーションとった経験はないでしょうか。

自分の家に来客者がいるとします。

来客者はうちわを仰ぎながら「この部屋暑いね」と言いながら顔をしかめています。

この場合、あなたならどうするでしょうか。

 

1,「たしかに暑いね」と同調する。

 

2,「クーラーつけますか」と聞く。

 

大概の人は2を選ぶのではないでしょうか。

客人の「暑いね」というメッセージの裏に「なんとかしてくれ」という、別のメッセージを読み取れたなら2を選ぶと思います。

これが「言外のコミュニケーション」です。

 

相手の発言を「言葉」に注目し、それだけで受け取るとこの選択は出来ません。

言葉以外の表情、視線の方向、そんなところから「言葉」の背景にあるメッセージを推測し、相手の意図を読み取る。

 

この「言外のコミュニケーション」が岡村くんとの間で円滑に行われていたからこそ、通じ合ってる気がするのだと、2人で話していました。

 

そして、これを子どもとのコミュニケーションだけに限らず、関わるあらゆるものと、あらゆる方法でのコミュニケーションを大切にしたいと、岡村くんは言います。

 

「先入観や、相手をこうしてやりたいという気持ちでコミュニケーションをしていると、言外のコミュニケーションは伝わらないんです。そこを円滑にするために、僕はコミュニケーションでは人間対人間という姿勢で臨むことを大切にしています。」 

 

 

 

怜悧でカタい印象の研究者。

その先入観で見ていると、おそらく岡村くんのことをずっと誤った見方をしていたと思います。

今回話をする中で、肩書を脱ぎ、ひとりの人間として現場で人との関わりをていねいに行い、優しい研究をしていきたいと語ってくれた岡村くん。

その心根に胸を打たれた1日でした。

ありがとう。

 

 

 

おわり