無着成恭の生活綴方教育
こんにちは。
ロペスです。
今回は無着成恭の生活綴方教育について。
まずは簡単に人物紹介と生活綴方教育との出会いまで。
○生活綴方教育との出会い
生まれは昭和2年。
山形のお寺で無着成恭は生まれます。
その後1945年に山形師範学校数学科で学び、戦争の経験を経て「これからの日本はどうなるのか」という不安を感じ社会科へ移籍。
1948年、21歳になった無着は山形師範学校を卒業し、山形の山元村立山元中学校で教鞭をとります。
当時、無着は『社会科学習指導要領』に感銘をうけ、社会科のような経験に基づく問題解決学習こそが教育活動の中心だと感じていました。
そこで生活の中から子どもが感じる疑問や純粋な気づきなどを題材に授業を行うようになります。
しかし、実践をする中で社会科の理念と現場がかけ離れているという実態を目の当たりにします。
無着の務める山元村立山元中学校は貧しい農民が多い地域で、学校も十分な設備が整っていませんでした。
そこで無着は次第に「ほんものの教育をしたい」と思うようになります。
こうした経緯で、無着は生活綴方教育と出会います。
では具体的に生活綴方教育というのはどういうものかという説明です。
○生活綴方教育
百科時点マイペディアの内容を引用すると
「児童・青年、さらには成人に自分の生活に取材したまとまった文章を書かせることによって、文章表現能力または表現家庭に直接現れてくる知識、技術、徳目、権利意識、意欲、広くはものの味方、考え方、感じ方を指導しようとする教育方法」
とあります。
この内容で行くと、文章表現のスキルや知識理解に焦点が向かいがちですが、前項にも書いたとおり、無着の根底にあるのは問題可決学習の理念です。
ですので、どちらかというと自分の生活を綴り、そのなかの切実な課題を生きた教材として、身の回りの課題に向き合っていこうとするとする態度を養おうとしていたようです。
その様子は彼の著書でもある『山びこ学校』に記されています。
ここでその実践例の一つを簡単に紹介しましょう。
山元村立山元中学校で教鞭をとっていたとき、一人の生徒が
「近所の人から、教育を受けた農民は百姓に嫌気が差して村を出ていく。教育は百姓潰しだ、という話を聞いた。百姓はやっぱり田んぼで泥にまみれている方がいいのだ。」
という趣旨の作文を書きます。
無着はこれを教材とし、子どもたちは
「そういう納得の仕方でいいのか」
「教育を受けるとなぜ百姓が嫌になるのか」
「百姓の生活は運命のようなもので、こういう状態から変わらないのだろうか」
という問に取り組んでいきます。
「教育を受けると百姓がなぜ嫌になるのか」
という問についてみると、その答えとして
「百姓は儲からないから」
という答えが出てきます。
そこから答えを出すことで終わるのではなく、次にこの答えの検証が始まります。
その過程で百姓の収支から数学を学ぶことができ、社会科にとどまらない教科横断的な学びができるようになっていくのです。
これはあくまで例の一つで、同著には数多くの実践例が載っています。
ご興味のある方はぜひ。
○所感
まず思ったことは今の現場でやると
「絶対保護者が黙ってないだろう」
ということ。
例えば環境問題でゴミの分別についてやるとします。
「うちの家は分別してませんでした!」って児童の話を教材化して
「どうすれば分別は広まるか」
なんて問いを立てて取り組みます。
これは保護者からしたら
「うちの家のゴミのことについて、先生は学校で槍玉に挙げて批判されてらっしゃるみたいですね」
という話になる。
では問題の起こらないような教材選びをするとします。
「世界の環境破壊をどう食い止めるか」
みたいな無難で生活から離れた学びになるでしょう。
子どもは実感がわかないからとりあえず良い子の正解の答えを出す。
こうなるともう全く意図からかけ離れた教育になりますよね。
地域や家庭との連携無しに行えない、高度な教育であると、そう感じました。
おわり