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日々の雑感

教育

こんにちは。
ロペスです。

 

今まで職場を気にして、自分と親しい教育の話題は極力避けて記事を書いてきたのですが、この度それに耐えられず(笑)またちょこちょこ書いていこうと思います。
ただ、あくまで自分の職場と関係の無い範囲で!を徹底していきます。

まずは「ゆとり」について。
この「ゆとり」はゆとり教育のことについてではなく、純粋な意味での「ゆとり」です。

今の子ども達や大人を見て思うことは、本当にゆとりがないと思います。

 

時間的な意味でのゆとりで言えば、子どもは塾や習い事でいっぱいいっぱいの過密スケジュール、大人は仕事仕事で長時間労働
時間にゆとりがなければ、こころのゆとりも失いかねません。
もちろん追われていることで燃える人もいるでしょうけど。
そういう価値観だけの社会で、本当に「人」として大丈夫なのかと思うときが多々あります。

「人」に過度な期待をしすぎて、あれもこれも出来るようにさせようと、教育界隈は四苦八苦しています。
しかしそれは本当に可能なのでしょうか。
これからくるであろうシンギュラリティ(機械が人を超える時)に向けて、機械に勝る人材を育てようとしていますが、それは可能なのでしょうか。
というより、それは人として大丈夫なことなのでしょうか。

 

自分はそこまで「人」に過剰に求めすぎないほうがいいのではないのかと思っています。
所詮人は人でそれ以上でも以下でもない。
ごく稀にいる優秀で有能な人材をみて、その成功パターンを他の人に当てはめて、同じような能力を持つように育てようとしている人がいますが、それはどうなのでしょうか。
その人なりに幸せであればいいのではないかと思っています。

 

ただ、それに対して社会が維持できないとか、経済成長に歯止めがかかるという反論もあります。
しかし、そもそも社会や地域などのコミュニティというのは、個々人が一人の力では生きられず、色々な人と助け合って生きていくことにより、最終的に個が生存していけるように誕生したものです。
つまり個のための集団であって、集団のための個ではないはずです。
その順番が逆になっているから、上記のような反論が出てくるのではないでしょうか。

 

出来ることは出来る人がすればいい。
出来ない人は出来ないなりに自分が貢献できることを見つけて出来ることを精一杯する。
それで集団は維持できてきたはずです。
誰もが同じような能力を求められ、貢献を求められるのはおかしいと自分は思います。

 

この先子どもに関わるものとして、全員が全員同じ基準で同じ能力を求められることに警鐘をならしながら、教育に携わっていきたいです。