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日々の雑感

人間合格

こんばんは。

ロペスです。

 

最近落ち込んでいる時に、追い打ちをかけるように太宰治の『人間失格』を読みました。

マジで入水しそうになりました。

真性のドMです。

落ち込んだ時って、どんどん自分を責めて、そんな自分に浸って、なんか悲劇のヒロインにでもなったような、そんな感じになってしまいます。

よろしくない。

 

本を読んだ後、少し落ち着いてから

「人間に失格があるなら、人間の合格ってなんだろう」

とふと考えました。

何をもって人間とするのか。

人間である、人間でないの境目を決めるのは何なのか。

というか誰がそれを決められるのか。

そのあたりがとても気になりました。

 

参考になるかなと思い、ハンナ・アーレントの『人間の条件』を読んでみましたが、全くもって内容が理解できず、自らの浅学を思い知り、『人間失格』を読んだ時以上に落ち込みました。

結構読書家だと思ってたのにな・・・。

あれくらい難しい本、世の中にまだまだあるんだろうな・・・。

それはそれで楽しみではあるのですが。

 

とりあえず全く参考にならなかった(できなかった)『人間の条件』は、読み終わったプレイボーイと一緒に安置しました。

ごめんなさい。

 

本筋に戻りますが、こういう話の時よく引き合いに出されるのが有名な「アマラとカマラ」のお話。

生まれたときから狼に育てられ、人間社会の影響を一切受けずに生きてきた兄弟の話です。

この話は後に神父さんが二人を引き取り、教育を施し、人並みの生活をおくれるレベルにまで育てたという話になっていますが、信憑性が低く創作だという話もあるので、真偽については何とも言えません。

ただこの話は大変興味深い価値観があり、「神父に引き取られた時点では人並みの生活ができず、二人は次第に『人間』になっていく(それまでは『人間』ではない?)」というものです。

 

 実際に今でも「人間としてしっかりしている」という言い方をする時、それは自立していて社会生活を営める最低限度の資質以上のものを備えていることを表します。

 

だとすると「障害者」「子ども」「年金受給者である高齢者」はどうなるのかって話になってきます。

社会生活を自立して行えていないのは「人間」という定義の範疇から出てしまうのか。

そんなことはないと思います。

というかそんなことを言えば即人権問題です。

 

人間として及第点である、合格であるというのはどのような状態を指し、誰が決めるのか。

太宰治がその点をどのように考えていたのか、とても知りたくなった読書体験でした。

本文中にその答えにつながる示唆があったかもしれませんが、その辺りは読み込めていなかったので、もう一度読んでみようかなと思います。

 

 

おわり