ロペペディア

日々の雑感

姫路のシリコンバレー【コワーキングスペース「mocco」】

こんにちは。

最近体重が人の域を超えました。

ロペスです。

色々なダイエットを試しているのですが全く成果は出ず、増える一方。

誰も私を減らせません。

 

 コワーキングスペースとは・・・?

 

今日はそんな私でもスタイリッシュを目指せる夢のような場所を見つけました。

それが「コワーキングスペース」という呼ばれるもの。

もう名前からしてスタイリッシュ。

かっこいい。

私のような巨漢でも、MacPC叩いてたらスタイリッシュに見える。

 

すみません言い過ぎました。

 

 

今日利用させていただいたのは、姫路にあるコワーキングスペース「mocco」です。

 

moccomocco.net

 

 

コワーキングスペース、皆さんは聞いたことがありますか。

私は詳しく知りませんでした。

同様に聞きなれない方も多いと思います。

それもそのはずで、この言葉や場所が日本で市民権を得たのは、ほんの4,5年前のことだからです。

結構新しいものなんですね。

 

 

 

そもそもコワーキングとは何でしょうか。

コワーキングとは、事務所や会議室などを共有しながら、利用者それぞれが個々に仕事をする働き方です。

コワーキングスペースはそれを行う場所のことを指します。

 

自分で事務所を持つ必要がないため、その分コストを減らすことが出来るのと、そこで一緒に仕事をしている人たちと出会うことで新たな仕事が生まれる可能性があったりと、利用するメリットはたくさんあります。

 

ここ「mocco」もそのような場所の一つ。

起業家、フリーランスなどの方々が集まり、日々仕事をしたり、常連仲間と会話を楽しんだり、またその中から新たなビジネスが展開したりしています。

 

 

つまりコワーキングスペースとは、色々なビジネスが動き、それらが交わることで新しいものが生まれる、シリコン・バレーのような環境なのです。

 

 

ではその魅力を一つ一つ紹介していきましょう。

 

 

コワーキングスペース「mocco」

 

姫路駅から徒歩7分。

城陽ビルの4Fに、コワーキングスペース「mocco」はあります。

 

 

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城陽ビル入口

 

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ビル前に置いてある看板 

 

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「mocco」入り口

手書きのかわいい看板が迎えてくれます。

 

 

入り口の戸を開けると、まず一番はじめに目に入るのはフライヤーの棚。

これだけ見ても相当な数です。

多くのビジネスがここで動いていることがわかりますね。

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 フライヤーの棚

 

 

歩を進めると、ゆったりと落ち着ける仕事スペースが広がっています。

利用者の方々がそれぞれ仕事をしており、見知った人と雑談を交わす様子なども見られます。

 

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仕事スペース。椅子の座り心地は最高でした。

 

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雑談を交わす利用者の方々。

壁面はイベント告知やプロジェクト広報、仲間募集などのスペースになっており、自由に書き込めるようになっています。

 

 

また、快適に仕事ができるよう環境や設備も整っており、wifiは完備、コンセントがあるためPCやタブレットを持ち込んで仕事を行うことが出来ます。

その他に複合機、大判プリンターなどの設備、ドリンクバー、電子レンジ、更にはなんとキッチンまであり、飲食環境も整っています。

 

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複合機。資料の印刷などに使えます。

 

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大判プリンター。

 

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ドリンクバー。

 

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まさかのキッチン。

 

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え・・・?これハンモック?

 

値段

 

そして最後。

これだけの整った施設だから、さぞかしお高いんでしょうとお考えの皆さん。

朗報です。

目ざとい方は最初の看板の写真で既にお気づきかと思いますが、本当にお手頃な値段設定。

料金はなんと

 

1日利用して1,000円ポッキリ

 

なんです。

一ヶ月利用だと

 

9,800円

 

とんでもないことです。

もう近所に欲しいくらいです。

むしろ姫路の近所に住みたい。

 

 

今まで外で仕事をするときは、大体カフェでした。

高いコーヒー買って、店員の「お前まだいんのかよ」という視線と戦いながら作業をしていました。

それが1,000円ポッキリで一日中仕事ができる環境があるなんて。

これからここ使っていこうかな・・・。

是非みなさんも姫路にお越しの際は「mocco」を利用してみて下さい。

 

 

おわり

 

「目に見えない問題を見える化する」【研究者】岡村 優努

こんにちは。

ロペスです。

 

 

昨日は関西大学修士一年生、岡村優努くんと話をしてきました。

教育界隈で活動していて、お互いの名前は一度や二度聞いたことがある程度だったのですが、SNSで接触してきてくれたことから今回の話につながりました。

 

研究者を目指し、現場と研究双方の感覚を併せ持つ岡村くん。

今回はその話の内容について書いていきます。

 

■謙虚な研究者のたまご

 

待ち合わせは難波のROUND1。

 

「場所よくわからないけど、赤い糸で繋がってると信じて向かうね」

 

ジョークを投げると

 

「会わないかもしれないッスネ(笑)」

 

と返ってくる。

「今日はフランクにいけるかな?」と構えを少し崩して待ち合わせ場所へ。

少し待つとTシャツ短パンの華奢な青年が笑みを投げかけてきました。

 

「こんにちは!」

 

 自分の服装を見直すと、ポロシャツとカーゴパンツ

お互いのラフな格好を見て、ちょっと張っていた気持ちが和みました。

 

「いやー、この格好でいいのか心配やってんけど、いけそうやな(笑)」

 

と軽く挨拶。

腹ごしらえのため河童ラーメンへ。

 

狭い教育の世界です。

名前はお互い知っていたので自己紹介も特に必要なく、間を置かず一気に議論に花が咲きました。

 

ここで軽く岡村くんの紹介をしておくと、大阪大谷大学在学時、大阪の「箕面こどもの森学園」で一年間インターンを経験し、卒業論文ではオルタナティブスクールを研究対象に。

卒業後、教育社会学と教育行政学を学ぶために関西大学修士課程へ進み、現在に至ります。

彼と自分との接点は、自分がフリースクールについて調べていて行き詰まっている時にSNSで声をかけてくれ、卒業論文を送ってくれたことから始まります。

 

正直初めはあまり良い印象を持っておらず、インテリ風のキザで華奢な感じの学生というように見ていました。

ただ、彼自身そのように見られやすいことを意識しており、処世術としてていねいな敬語、腰の低い態度を身に付けていました。

それは共感するところがあり、

 

「お互い弁が立つと苦労するよね」

 

なんて話でも盛り上がりました。

とにかく、自分の持っていた先入観は崩れ去り、謙虚な研究者のたまごとして岡村くんと議論をすることになりました。

 

 

■conviviality(コンヴィヴィアリティ)

 

初めの議題はイヴァン・イリイチのconvivialityについて。

 

convivialityとは何か?

難しい概念なので具体的な例を出して説明してみます。

学校を例に出してみましょう。

学校にはルールがあります。

廊下を走ってはいけない、授業は座って聞く、私語をしない・・・etc

このようなルールに対して、現状の子どもたちは従う他に術を持たず

「そのルールはおかしいんじゃないか。修正の必要があるのではないか。」

と言うことが出来ません。

この状態をconvivialityが無い、と表現します。 

 

つまり、ここでの例で言うと、多少強引ではありますがconvivialityとは「権限」と言い換えることができます。

ただ少しニュアンスが違って、「権限」はどちらか一方が持つものという印象ですが、convivialityにあるのは「お互いに」という公共性。

なので便宜上

 

conviviality≒権限

 

としておきます。

 

上記の例を用いると、権限を子どもに渡すというと

「子どもの好き勝手にされるじゃないか!!」

という反応をする人がいると思います。(自分もそうでした。)

しかし、それに対して学校側も

「好き勝手にするのはおかしい」

という権限を持っているというのが大事なところ。

つまりconvivialityがあるというのは、学校と子ども両方に同等の権限が有り、対等な立場で物事を決めていけるような状態なのです。

 

岡村くんは公教育では「子どもにconvivialityが無く、人権が侵害されている」と主張します。

現場で支配的に教員をしていた自分にとって、この話は衝撃的で「子どもに権限など渡したらろくなことにならない」という不安が払拭できずにいましたが、彼はそれでも「子どもを1人の人間として尊重するなら大切なことです。」と言います。

 

続けて彼は、上記のように一見当たり前のように見えても、実はそこで苦しんで不登校になったり、精神的に苦しんでいる人もいることを指摘。

 

「僕は『見えていない問題を見える化』する研究者を目指しているんです。」

 

と話します。

当たり前だと思っていることの中にも、実は問題が隠れていて、見えにくいだけでどこかで誰かが苦しんでいるかもしれない。

自分はそれ見えにくくしているものをはがして見えるようにしていきたい、そういう研究者になりたい。

語調こそ穏やかだったものの、眼に力をこめ、そう語りました。

 

もうこの時点で自分の岡村くんへ対する見方は大きく変化していました。

まず、「べき」や「ねば」といった言い方をしない。

これらの言葉は「世間が」「社会が」「他人が」と、本人以外の主語がくるため、その当人と話してる感じがしないんですよね。

彼はそういったあやふやな言葉を使わず、「僕が」とていねいに主語を立てる。

そして必ず相手の主張を尊重する。

会話の中で、自分はそんな岡村くんの人当たりの柔らかさに、次第に魅力を感じ始めていました。

 

研究者という怜悧で冷たい印象のおカタい人物ではない、心根の優しい人。

そんな印象を持ちはじめていました。

 

 

■「言葉」から漏れ出たコミュニケーション

 

次に場所を移し居酒屋へ。

おいしいお寿司に舌鼓を打ちながら、共通の友人の話をしたり、真面目な議論から少し離れた人間臭い話をしたり。

 

「ほんと腹立ちましたからね!!」

 

と過去の経験を語気を荒げて話す岡村くんは、飲んで、笑って、怒る一人の若者でした。

 

そんな中で次第に岡村くんと通じ合うような感覚がしてきました。

 

勘違いだったら自分がただのイタい奴なんですが、彼もそれを感じており、今度はカフェへ場所を移して「言外のコミュニケーション」という議題で話しました。

 

 

突然ですが、あなたはこんなコミュニケーションとった経験はないでしょうか。

自分の家に来客者がいるとします。

来客者はうちわを仰ぎながら「この部屋暑いね」と言いながら顔をしかめています。

この場合、あなたならどうするでしょうか。

 

1,「たしかに暑いね」と同調する。

 

2,「クーラーつけますか」と聞く。

 

大概の人は2を選ぶのではないでしょうか。

客人の「暑いね」というメッセージの裏に「なんとかしてくれ」という、別のメッセージを読み取れたなら2を選ぶと思います。

これが「言外のコミュニケーション」です。

 

相手の発言を「言葉」に注目し、それだけで受け取るとこの選択は出来ません。

言葉以外の表情、視線の方向、そんなところから「言葉」の背景にあるメッセージを推測し、相手の意図を読み取る。

 

この「言外のコミュニケーション」が岡村くんとの間で円滑に行われていたからこそ、通じ合ってる気がするのだと、2人で話していました。

 

そして、これを子どもとのコミュニケーションだけに限らず、関わるあらゆるものと、あらゆる方法でのコミュニケーションを大切にしたいと、岡村くんは言います。

 

「先入観や、相手をこうしてやりたいという気持ちでコミュニケーションをしていると、言外のコミュニケーションは伝わらないんです。そこを円滑にするために、僕はコミュニケーションでは人間対人間という姿勢で臨むことを大切にしています。」 

 

 

 

怜悧でカタい印象の研究者。

その先入観で見ていると、おそらく岡村くんのことをずっと誤った見方をしていたと思います。

今回話をする中で、肩書を脱ぎ、ひとりの人間として現場で人との関わりをていねいに行い、優しい研究をしていきたいと語ってくれた岡村くん。

その心根に胸を打たれた1日でした。

ありがとう。

 

 

 

おわり

 

 

 

 

明日は何者かになろうとするあすなろたち

こんばんは。

ロペスです。

 

 

今日は書店でたまたま出会った本の紹介。

読み進める内に「これは紹介しよう!!」となったので、この場を借りて紹介します。

(海がめサーフくんにはちょっと休んでもらいます。)

 

自分がこの作品をおすすめしたいポイントは三つ。

 

・登場人物達の姿を見て「ちょっと頑張ってみるのもいいかな」と思える。

・ていねいな進み方で、まろやかな読書タイムを過ごせる。

・物語との距離感が心地いい。

 

この三点です。

それぞれどういうことなのか。

これから順番に紹介していきます。

 

 

檜になろうとする「あすなろ」たち

 

「明日は何者かになろうとするあすなろたち」

 

 

この文は、文豪井上靖『あすなろ物語』にある文章の一部です。

 

 

そもそも「あすなろ」とは何でしょうか。

漢字では「翌檜」と書きます。

木の名前ですね。 

写真がこちら。

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木の形状について特に言及するつもりはありません。

伝えたいのは「翌檜」の語源です。

この木、どのような木なのかというと

 

「明日は檜(ひのき)になろうとする木」

 

なのだそうです。

著書の中ではこう語られています。

 

 

「あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。でも、永久に檜にはなれないんだって! それであすなろうと言うのよ」

 

 

このような意味を込めて

 

・「檜になろうとするが、結局檜になれなかった者達」

・「檜となっていった者達」

・「そもそも檜になろうとすら思っていない者達」

 

が描かれているのがこの作品。

 

 

以前の記事では「何者でもない自分自身を認めることも大事」と書きました。

しかし、「自分以上の何者かになりたい」という気持ちが沸き起こってくるのを禁じ得ないこともあります。

自分は上の一文を読んだ時、胸からこみ上げてくるものをを感じました。

誰だって、いつだって、「あすなろ」になり得るわけです。

 

「俺だって一流の人間に・・・!!」

 

「いつかは一角の人物になってやる」

 

というような、青臭い理想を持ちながら生きていく作中の若者たち。

彼らのように、檜になろうとしている「あすなろ」に会うと、触発されて自分もちょっと頑張ってみようかなという気にもなります。

そしてそれは決して押し付けがましいメッセージではなく、彼らの生き方に触れて自然と湧き上がってくるものでした。

 

 

ていねいに紡がれる物語

 

古い文豪の作品でよく感じることなんですが、本当に物語の進み方がていねい。

セリフが多く、一文が短いテンポの良い昨今の作品と違い、じっくりじっくり進みます。

最近の作品が、物語を「走らせている」とするなら、それに対して物語を「流している」感じがします。

 

無理がない。

 

ゆとりがある。

 

読み進めている中での疾走感や、読後の爽快感という点では劣っているかもしれませんが、物語に「ついていく」感覚はありません。

物語を味わえる、余裕のある進み方をします。

そこに自分は「ていねい」さを感じました。

 

物語との適度な距離感

 

感覚的な話なのですが、読者との距離感がいい。

視点の問題でしょうか。

一人称で書かれているものではないので、少し距離があるんですね。

だから「登場人物になったつもり」で読むのではなく、他人の人生に並走している感じ。

上記で登場人物に「会う」と表現したのもそのため。

 

この距離感が実に心地いい。

読後に一気に現実に引き戻されたというような感覚がありません。

ちょっと違う世界を覗いた、知らない人の人生に触れた、そんな読後感を与えてくれます。

 

これは好みの問題なのですが、自分としてはがっつり共感してヘトヘトになるよりは、物語に「そっと触れる」ことができる作品が好きなので、ここをポイントとして紹介しました。

 

 

 

「あすなろ」な登場人物たちに出会い、ていねいな物語に触れ、適度な距離感でまろやかな読書タイムを楽しみたい方は、是非手にとってみてください。

 

 

 

おわり

 

 

 

 

 

海がめサーフ

こんばんは。

ロペスです。

 

あれ?お前昨日更新してたくね?

って感じでしょうが、今日も書きます。

前の記事に書いた通り、書き物の仕事を頂きました。

しかし、残念なことに今までに書いた文章の「量」が全然足りていない。

「質」に至っては言わずもがな。

 

ということで、ひたすら文章を書いていきます。

そう、やる気が続く限り・・・。

 

 

今回からは「日記」ではなく、「記事」を書いていきます。(前回の投稿参照)

 

ただ、ぽんぽんとネタが出て来るわけもなく、何を書こうかなと。

そこで、自分が幼少期にタカラモノを貯めていた引き出しから「これは・・・!!」とビビッと来たものを紹介していこうと思います。

今回はこちら。

 

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おそらく小学校低学年あたりでしょう。

本が大好きだった自分が、初めて人に向けて書いた文章です。

 

『がんばれ 海がめサーフ 第一かん』(著:中野 広夢)

 

まあ地雷のにおいしかしない。

正直記憶もあやふや。

これをいろいろツッコミ入れながら、何とか良さを引き出して紹介していけたらと思います。

 

まずは表紙から。  

 

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そうですね、どこからいきましょうかね。

ここは定番通り、主人公から紹介しましょうか。

 

異才、中野広夢(幼少期)が生み出した『がんばれ 海がめサーフ』シリーズの主人公。

海がめサーフくんです。

背中に何かついてますね。

ご丁寧に「パワーランプ」と説明がかかれています。

機会と生物の融合、そんな禁忌に果敢に挑戦する小学生低学年。

このころから既に社会への問題提起を行っていたんでしょうか。

それとも怪獣映画の見すぎだったんでしょうか。

 

 

よく見ると、サーフくんの後ろにうっすら大きな亀の陰が見えます。

これからのサーフくんの成長を期待させるギミックと受け取ることもできます。

しかし自分の記憶が正しければ、これは単純に大きく描きすぎて消しゴムで消して書き直しただけ。

画用紙でつくっていたので、こういう制作過程が残るんですね。

そんな小さな子どもの試行錯誤が垣間見える微笑ましい表紙です。

 

次にタコ。

被り物に描かれたドクロマークからは、形にとらわれない、自由な絵画技法を作者が好んでいたことがうかがい知れます。

 

最後にマンボウ

お前なんでいるん?

 

 

 

ではページをめくってストーリーをなぞっていきましょう。

 

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みんな同じ方向を向いていますね。

仲良しなんでしょうか。

それとも逆から書くのが大変だったんでしょうか。

 

そして右下には「生まれてからずっと見はっている」という、プロのストーカーのタコ。

おそらく表紙に載っていた悪役っぽいタコのことでしょう。

 

そしてマンボウ

なにしてるん?

 

 

で、次のページで急展開。

タコが飛び出てきます。

生まれてからずっと付け狙ってたそうですが、ここで何かを感じたのでしょうか。

「ここだ!今がチャンスだ!」とばかりにサーフに襲いかかります。

読解力の無い私は、一体どのあたりがチャンスなのか皆目検討もつきません。

読者に謎を残すという、高尚な技が使われています。

ところでこのタコ、表紙では頭に被っていたドクロマークの帽子がなくなっています。

何かの布石でしょうか。

謎は深まるばかりです。

 

視点を文章に移しましょう。

「かあちゃあん」

がいいですね。

めっちゃ叫んでる様子が伝わってきます。

当時読んでいた『ハリー・ポッター』シリーズの影響を受け、感情的なセリフは文字を大きくすることで表現するという技が使われています。

こういう他の作品から技を盗んでくるあたり、作者の積極的な学習の姿勢がうかがい知れますね。

 

 

そして次はいよいよサーフが冒険へと旅立つ場面。

 

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「さあ、新しい冒険に出ぱつだあ!!」

 

ちょっとテンション高いですね。

お母さん意識不明で、恨みから仇を討ちに行く割には結構テンション高いですね。

あと「新しい」という表現にも疑問が残ります。

一体何が「新しい」のか。

これはもしかして、今後サーフくんの過去を描く予定で、その時の冒険と比較して「新しい」という表現をしているのでしょうか。

解釈が無限に広がる味わい深い文章ですね。

 

 

場面変わってサーフは仲間に恵まれます。

「アイテムや地図を手に入れてつぎなる海へ行きます」ということで、冒険の地道な歩みが全てカット。

物語は面白いところだけでいいんだ。

そんな作者の物語観が表れている一文です。

 

そしてマンボウ

博士だったんですね。

家族襲われるまで一緒にいてて、襲われているときには姿を消していたマンボウさん。

これを仲間にしてしまうのは人選ミスではないでしょうか。

それとも、そういう弱さがあるマンボウでも、仲間として受け入れるサーフくんの懐の広さを表現したかったんでしょうか。

読み手によって解釈がわかれますね。

 

ここで新キャラの「たなごけいびたい」の登場です。

失礼を承知で申し上げると、「たなご」という魚、正直キャラとしてあまり立たないように思います。

そして「けいびたい」という役職に関しても、どっちかというと「守る」お仕事ですよね。

攻めに行ってますけど、やる気満々って言ってますけど、大丈夫でしょうか。

これは登場人物にあえて「欠点」を与え、物語の人物間のパワーバランスを調整する目的があるのでしょうか。

この先、要チェックですね。

 

 

 

さて、読み進めていく内に、どんどん気になる点や素晴らしい点が出てきました。

とてもじゃありませんが一回分の記事にまとめきれません。

ということでこの続きはまた次回。

 

 

 

おわり

 

 

 

 

 

紹介する強さ

こんばんは。

ロペスです。

 

 

縁あって、教育とは別にこれからライターとしての仕事をいただくことが決まりました。

詳細はまだお話出来ないのですが、簡単に言っちゃうと、人の素敵なところを発掘して、それを読者に伝える記事を書く仕事です。

読んだ人に「この人に会ってみたいな!」と思ってもらったり、「こんな人が身近にいるんだ!」ってワクワクしてもらうのが目的です。

 

 

仕事をもらった時、自分には

 

「今までブログ書いてきたし、文章力には自信がある!うまくやれる!」

 

という自信がみなぎっていました。

しかし、それが勘違いであると気づいたのがついさっき。

 

 

まず、自分が書いてたブログって、基本的に「日記形式」なんですよね。

「記事」ではないんです。

どういうことか。

 

 

ブログは内容によって「記事」と「日記」との二つに大別されるらしく、以下のような規準で分けられているそうです。

 

 

・記事

 「何を」「誰に」伝えて、「どういう気持ちになってほしいのか」「どうして欲しい

 のか」が決まっており、戦略的に組み立てられたもの。

 

・日記

 自分の思いや気持ちを書くもの。

 

 

この定義から言うと、自分の記事は「日記」であり、ただ自分の思考や感情を綴っているだけに過ぎないんですね。

それを誰に届けたいとか、読んだ人にこう思ってもらいたいとか、そういう目的意識が全くない。

 

別に「日記」が駄目で「記事」が良いという善し悪しの話ではないのですが、今後ライターとして仕事をする際は、当然書いたものをターゲットに届けなければならないし、それによりどのような効果を与えたいのかというところも考慮に入れなければなりません。

 

この分類を知る前までは結構自信があったのですが、ただ文章を書けるというのではなく、目的に応じて読者に訴えかけるメッセージ性のある記事を書く必要があるとわかってから、ちょっと自信がなくなったんですね。

 

でもそこは正直問題だとは思っていません。

初めから仕事に対して自信満々で臨むのは過信に繋がりかねないだろうという危機感があるのと、仕事において必要なのは「出来る!」という自信より「やる!」という覚悟だと自分の中では思っているので、あまり自信のあるなしはどうでもいいんです。

 

ただ気になったのは「なぜ今までそのような記事を書いてこなかったのか」という一点。

これまで文章を書く機会なんていくらでもありました。

このブログでもそうです。

趣味で言えばおすすめの映画を紹介したり、本の魅力を語ったり、そうすることで読者に興味関心を持ってもらおうと、「記事形式」の文章を書けたはずなんです。

 

 

なぜ自分は「記事」が書けなかったのだろう。

 

 

それを突き詰めて考えた時、過去の苦い体験が思い出されました。

 

 

大学時代、色々団体立ち上げて活動をしていたんですが、結構周りの友人からは批判を浴びていました。

そこまでいかなくとも、理解されず、苦しんでいました。

イベントをつくってSNSで招待する時も、身近な環境の友人を誘うことは基本避けてきました。

理解されず、相手にされず、批判されたり認められなかったり、そういうのがすごく怖かったんです。

そこはコンテンツに問題があったというより

「お前にそれをやる資格があるのか」

「その前にやることがあるだろ」

というような、自分自身のあり方に問題があったと後々気がつくことになるんですが、それでも自分は「いいと思って紹介したものが馬鹿にされる」という、苦い思いをしたんですね。

 

その経験から、自分が本当にいいと思ったことや感動したこと、素敵だなと感じたことを人に紹介するのがとても怖くなりました。

今でもそうなんだと思います。

 

「わかってくれなかったらどうしよう」

 

「バカにされたらどうしよう」

 

そういう恐怖感があったため、否定されないような、理解してくれそうな人にだけ紹介するようになりました。

 

 

ただ、今後頂いた仕事を進めるにあたり、「この人いいな!」「この人素敵だな!」と思ったことを発信するのに躊躇していたら、いつまでたっても記事は書けません。

「いい」「素敵だ」と思ったことを、「いいんだよ」「素敵なんだよ」と、言い切る勇気が必要になってきます。

ここは乗り切らなければならない。

 

 

このタイミングでこの仕事を頂いたのは何かの縁。

上記の恐怖感を克服する一つの試練なのかもしれません。

 

これを機会に、自分は自分のいいなと思ったこと、素敵だなと思ったことをしっかり勇気をもって伝えられる人間になりたい。

 

 

また皆さんに告知が出来る段階になったら、こちらでも紹介するので、

是非自分の「記事」を読んでください!!

お願いします!!

 

 

 

おわり

 

 

 

 

自分は自分

 

お久しぶりです。

ロペスです。

 

最近久しぶりに自己啓発書を読みました。

仕事でいろいろあって、自分でモチベーションを上げるのに限界が来てたんです。

 

読んでみると、さすが書店で平積みされている人気書。

すごくパワーを貰えました。

この手の本は、まるで自分が自分でない偉大な何者かになれるかのような、大きな自信を与えてくれます。

 

しかしちょっと待てよ、と。

 

「じゃあなんでここ最近自己啓発書を読んでなかったんだろう?」

 

そんな疑問が頭をよぎりました。

そしてその時気づいたことがあったんです。

今回はその「気づき」について書いていきます。

 

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自己啓発書をよく読んでいたのは大学時代。

当時いわゆる「意識高い系」と呼ばれるカテゴリに所属していた自分は

 

「日本の教育を変える!!」

 

「平成の世に名前を残す!!」

 

と大きな理想に燃え、そのために努力を続けていました。

自分が所属している界隈は、学生団体という「意識高い系」の有志の集団。

当時学生団体は最盛期を迎えており、若い理想に燃える学生達の受け皿になっていました。

学生団体は「意識高い系」の自分にとってとても心地よいもので、「頑張っている自分」「理想を掲げて進んでいる自分」を肯定してくれる人たちがたくさんいます。

ただ、同時に「意識が低い」と見なされた人たちにはとても厳しい、排他的な態度で接していました。

 

そんな中で育った自分が社会に出て1年目。

当然壁にぶつかります。

今まで関西の田舎でちやほやされ、「頑張っている自分」「理想を掲げている自分」に酔い、「東京で一旗揚げてやる」と意気込んで飛び込んだ魔都、東京。

就職活動でうまく上場企業に入ることができ、有頂天になっていた自分を迎えたのは全国から集まった優秀な新卒。

  

まあうまくいかないですよ。

プライドだけ高く、実力はあまりついていなかった自分を認められず、ホンモノの「意識の高い」人たちと過ごす毎日。

出来ない自分を認められず、「こんなはずではない」「自分はもっとできるはずだ。いや、出来なければならないんだ。」と日々自分を責め続けました。

結果その自責に耐えられなくなり、会社を辞めて逃げるように関西に帰り、大きな爆弾を抱えてしまいました。

そして、ついに自分を認められなくなり、崖っぷちに立たされます。(実際はそう思い込んでただけでしたが)

 

しかし、最後の最後で周りの友人や家族が手を差し伸べてくれました。

「どうなっても、ロペスはロペスだから」と。

この時の感謝の気持ちは今でも忘れません。

助けてくれた友人たちは、自分が「意識高い系」だったころに厳しく当たっていた人ばかりでした。

そんな酷い対応をしていたのにも関わらず、自分に手を差し伸べてくれたこと、本当に感謝しています。

 

そこで気付いたことが、「自分はどうあがいても自分なんだ」ということ。

「何者かになれる自分」ではなく、「自分は自分でしかない」ということ。

自分は自分。

それ以上でも以下でもない。

このことに気付いてから、とても楽になりました。

本当の意味で「自分」というものを受け入れることができるようになったと思います。

 

それ以来自己啓発書にはできるだけ触れないようにしてきました。

自分にとって劇薬だったのです。

その事を忘れていました。

 

 

自己啓発系の書物やセミナーは、「自分は自分以上の人間になれる」という、とても魅力的なメッセージをくれます。

しかし、その「理想の自分」という過大な自己像とのギャップに悩んで潰れるくらいなら、自分を認めて自分を生ききるという選択をしてもいいのではないでしょうか。

 

 

大事なことを忘れていたので、思い出す意味を込めてここで書いておきたいなと思った次第です。

 

 

おわり

不信と規律

もう・・・二ヶ月もブログ更新してなかった・・・!!

お久しぶりです。

ロペスです。

 

最近は特に何か主張したいことがあるわけでなく、SNSやブログなどで意見を主張する機会もかなり減ってきました。

その分日常生活で言いたいことを言えているのかなと思うと、それはそれでいいのかなと。

 

しかし、今日後輩と飲む中で得た気づきが自分の中でとても大きく、また衝撃的だったので、それを記事にしておきたいと思い、久しぶりに更新します。

 

お題は「規律」について。

 

 

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まず本題に入る前に、自分と後輩の間で「自由の相互承認」という価値観の前提があるんですが、それを先に説明しないとこの先の話がピンとこないと思うので、簡単に説明します。

 

「自由の相互承認」というのは、熊本大学の教授で教育哲学者の苫野一徳先生の著書にあった言葉です。

厳密に言うと、歴史を遡ってヘーゲルやルソーなどから出てきているんですが、そこまでいくとそれだけでかなりコアな部分になってくるので、さらっといきます(笑)

(詳しく知りたい方は『教育の力』『公教育をイチから考えよう』などの先生の著書を読んでみて下さい。)

 

 

 

みなさん「自由になりたい!」と感じたことありませんか?

「生きたいように生きたい」

「やりたいようにやりたい」

そんな感情、誰しも持っていますよね。

人間は必ず「自由になりたい」という欲望を持っている。

こんなふうに考えたのがヘーゲルという人です。

 

ただ、お互いがお互いの自由を守ろうとすると、または押し通そうとすると、必ず争いが起こります。

自由のために、人間は長い間争いの歴史を積み重ねてきました。

ヘーゲルは度重なる戦争の中、どうすれば争いを無くせるのかを考え、一つの答えを出しました。

 

 

「みんなが自由になりたいということを、みんながお互いに認め合うしかない。その上で自由に生きていくことと、共存していくこととを調整していくほかない。」

 

 

 

これが「自由の相互承認」という考え方です。

 

 

それぞれが自由に生きられること。

そしてそれだけでなく、他者の自由を尊重し認められること。

この「自由の相互承認」の考え方を、学校教育の目的だとして主張したのが苫野一徳先生です。

 

 「学校は、すべての子どもたちに『自由の相互承認』の感度を育むことを土台に、この社会で『自由』に生きられる力を育むためにある」

 

教育の目的の根本はここにあると、苫野先生は言います。

 

 

さて、話はここから。

「自由の相互承認」をクラスで実現するためにどうするか。

そのことについて後輩と議論をしていました。

 

自分の主張は

 

「やはり規律だろう。クラス全体で共通了解をとった規律を設定し、それぞれが守っていく方法がベストだ。」

 

というものです。

ただ自由を認め合いましょうねで認め合えるわけがないし、明確に「これはあり」「これはだめ」という基準を設け、自分の中の基準とのズレを修正しながら感度を高めていく。

そういった方法が一番いいと、自分は思っていました。

 

しかし後輩はさらっと一言。

 

 

「え、でもロペスさんと僕との間に規律とかつくってないですよね。それでもお互いの自由を尊重できてますよね。」

 

 

それは・・・まあそうでしょうけど!!

でも確かに後輩の言うとおり。

別に「俺達の間でありとなしの基準を明確化して規律を設定しようぜ!」なんて話はしてないし、そんな話が出てこようもんなら「どうしたの?病んでんのお前?」って感じになる。

 

 

「なんかそこって、明確に規律とか作らなくても、関係の中であれは嫌これは嫌でお互い思い合ってたら済む話なんじゃないですか。」

 

 

ずどーん!!

自分の中で価値観が大きく変わった瞬間でした。

まあ普通に考えれば確かにそうなんですけど、何というか、仕組みとしてつくっておかないと安心できないというところが自分にはあって、常に「そんなうまくいくわけがない」というフィルターがかかってしまいます。

 

そもそもあれは嫌これは嫌って主張が通るかどうかもわからない。

それなら規律をつくって、それを頼りに正当性を訴えられるようにした方が健全だ。

誰しもが善人じゃない。

思い合えるなんて容易にできるものか。

荒れていた現場での経験が、常に最悪のパターンを想定して考える習慣をつくっていました。

 

その時、多分自分は人をそこまで信用できていないんだなと気付かされました。

相手を心から信用していれば、規律で縛る必要もないですしね。

何か信じられるものを、明確なものを求めてしまうのはそこなんでしょう。

不信が規律を生む!!(笑)

これは自覚していなかったので、大きな衝撃でした。

 

この気付きがあったからといって「私明日から人を信じます!!人類皆兄弟☆」みたいな脳内お花畑人間でもないので、最悪を想定した考え方から中々抜け出せないとは思うんですが、少なくとも自覚できたことは良かったのかなと。

 

そういう気づきでした!

久しぶりに長文書いたからしんどい・・・